次に目を開けた時、ベッドの上にジャハーンの姿はなかった。
 もう公務に出かけたのか。
 俺はウウン、と伸びをすると、ベッドから降りて窓際に歩み寄った。
 よく晴れて、息を飲むほど青い空が広がっている。
 ……今日も一日暑くなりそうだ。
 俺は溜息をついて、そこに座り込んだ。
 中庭を抜けてくる風が、優しく頬を撫でる。
「どうして、あんなに怖いんだろう」
 気がついたら独り言を呟いていた。
 気にするまいと思っても、意識があの夢に吸い寄せられてしまう。
 前あの夢を見たときも、俺はものすごく恐怖を覚えた。毎晩自分の悲鳴で飛び起きるのですっかり寝不足になり、体重もだいぶ落ちてしまったくらいだ。
 でもあの時は、その夢が何を意味してるのか知らなかった。だからただ闇雲に怖がっていた。
 今は知っている……あれはシシロ河の増水量を示す夢だと。
 でもその夢が、どうしてここまで俺を苦しめるのだろう。
 確かにシシロ河の増水量は、多ければ洪水を起こして天災となるし、少なければ作物の実りが悪くなって飢饉を引き起こす。王国の人々の命を、良い意味でも悪い意味でも握っている。
 母なる河、か……。
 俺はかつてピピに教えられた言葉を思い出した。
 水の神、レーィは全ての恵みと命を司る女神……。
 シシロ河を産褥として、太陽の王国を産み落とした。
 ……神話だ。そんなのは御伽噺でしかない。だけど、俺の見た夢は現実になり、そして俺は……まるで呼び寄せられるようにこの王国にやって来た。約一ヶ月続いたあの悪夢だが、最後の夜は違う夢を見たんだった……母親の胎内に居るような夢を……それじゃあ……もしかしてレーィ女神は本当に存在するのか?
 俺は無意識に自分の身体を腕で抱きしめた。
 怖い。
 俺は、現代の日本で育って来た。住宅事情の悪い都内の家には、仏壇すら置くスペースがない……つまり子供の頃から神様の存在なんて、これっぽっちも信じたことがなかった。否定する気はないけど、神様よりもサンタクロースの存在の方がまだ信憑性があると思っていた。
 まだたった16年しか生きてないけど、その人生の価値観や自分の知っている常識が全て覆ってしまうような……足元の床がフッと消えてしまったような、そんな心地だった。
 暮らし始めて一年しか経っていない、この未知なる異世界で、人間の命をいともたやすく支配する神という存在が、本当に居るのだとしたら……その神を敬う気持ちが全くない、異世界人の俺は一体神にどう思われているんだろう?
 俺がここに来たのが神の意志だというのなら、いつか来た時と同じように突然日本に帰る、なんてこともあるんだろうか?
 もし俺がこの国にとって不必要な存在になったら……もし俺が神に嫌われたら……ここを追い出されてしまうんだろうか。
 日本に帰ってしまったら、ジャハーンとはもう……会えない?

「神子!」

 突然目の前にピピの顔が現れて、俺は思いっきり驚いてしまった。
「うわあっ! ……ピピぃ、驚かすなよ」
 ピピはちょっと戸惑ったように首を傾げると、俺を立ち上がらせる為に手を差し伸べた。
「申し訳ありません。……でも、僕は何度もお声をかけたんですよ」
 ピピの手を借りて腰を上げながら、俺は年下の彼の顔を見つめ返した。そしてふと気がついた。ピピは背が伸びた。今まで目線は俺より低かったのに、今では同じくらいになっている。
「でも神子は僕の声も聞こえず、何も見えていらっしゃらないようで……何だか青い顔をなさっていましたよ。一体どうなさったんですか? ご気分が優れませんか?」
「あ……いや、そうじゃないよ。至って元気」
「でも……ひょっとして、王と何か? ……あ、申し訳ありません。差し出たことを申しました」
 パッと口を抑えて、ピピは頭を下げた。
「やめろよ。別にピピは悪いことしてないじゃないか。俺に向かって頭なんて下げるなよ」
「いいえ、身の程を弁えない言葉でしたから……」
「身の程って……別に、ピピは俺を心配して訊いたんだろ? 俺の面倒を見るのがピピの役目なら、それは当然のことじゃんか」
「面倒を見るなど、そんな、とんでもありません。僕は神子にお仕えして、身の回りのお世話をさせていただいているのです」
「お仕えって……確かに王の嫁だから、エライ立場かもしれないけどさぁ」
 俺はちょっと口を尖らせた。
「そんなの建前じゃん。実際は、俺たち年の近い同じ男同士なんだしさ」
 ピピは困ったように少し笑った。
「……さあ、朝食をお召し上がりください。今日は訓練の後、神殿建設の責任者が謁見に参ります」
「神殿建設? ポティノスか?」
「おそらくそうでしょう。王は、神殿のことは神子におまかせになるようですから……きっと次の増水期の間の雇用についてのお話でしょう」
「ふうん……難しい話なんて、俺にはわかんないのにな」
「神子は勉強なさったではありませんか。大丈夫です、知識と揺るぎない心があれば……神子は神に守られているのですから」
 テーブルの前に座った俺に山羊のチーズの乗った皿を差し出して、ピピはやけにしっかりした口調でそう言った。
「ピピは、神を信じているんだな」
「神を信じぬものはおりません。何故なら神はすぐ隣に居るのですから」
「隣に?」
「そうです」
 続いて、香草とレタスとキュウリのサラダを取り分けた皿が差し出される。
「神は近くて遠い存在です。すぐ隣に居るのに触れることはできない」
「それじゃあ、居ないのと同じじゃないのか?」
 俺は手を伸ばして、パンにチーズを乗せると一口齧った。
「不思議なことをおっしゃるのですね」
「……そうかな」
「神の国に居られたのですから、僕達とは物の感じ方が違うのですね」
 ピピは何の疑いもない顔をしていた。俺が神を信じていないかもしれないなんて、ほんの少しも思っていないんだろう。
「目に見えぬ、手に触れられぬものでも、存在するものはたくさんあるではありませんか」
「例えば?」
「例えば、大気です。手で触れることはできないし、目に見えるものでもありませんが、それは確かにここにあります」
「大気?……驚いたな、大気の存在を知っているわけ?」
「はい。大気の神は、太陽神の口から産まれました。そして大気の神が歩いた後に、大気が生まれるのです。ここに大気があるということこそ、神がいるという証拠です」
「……ふうん」
 瑞々しくハリのある野菜を口に入れると、濃い緑の香りがする。
 パンの最後の一口を飲み込んだ俺の前に、イチジクのピュレが置かれた。デザートというところだろう。
「コレも、神の恵みの賜物ってやつなんだ」
「そうです。太陽神、そして霧の女神、大地の神……それに母なる水神レーィの恵みです」
「母なる、水神……女神なら全て母なんだろう?」
「そうです。神は父であり、母でもあります。でもレーィは全ての母です」
「全ての?」
「世界はかつて、水の中にありました。混沌として、深く、暗く、不安定で、無限の世界だったのです。そこにひとつの卵が産み出された……それが太陽神です」
「水が先なんだ」
「え?」
「じゃあ、レーィは何から産まれたんだろうな」
「レーィはただの神ではありません。太陽神は白い肌と、長い黄金の髪の姿を持っています。でもレーィに姿はありません。レーィ神は全ての母であり、始まりの象徴であり、形のないものなのです」
 俺はスプーンをテーブルに置いた。
「ダメだ……なんかワケわかんなくなりそうだ」
「神の存在は、理解するものではないですから……」
「じゃあ何なんだ?」
「ただ、知り、感じることです」
 当然のような顔をしてそう言うピピが、何だか羨ましかった。
 俺にはそう思えない。
 わざわざ「自分は神を信じている」と言う必要もないくらい、神を信じきることはできない。
 きちんとその存在を現してくれなければ……でも、その存在を確かめるのが怖い。

 増水期が近付いている。
 それはつまり、レーィの神殿に行く時が近付いているということだ。
 去年そこを訪れた時、神の石に触れると俺は白昼夢を見て倒れた。
 今年は、一体どうなるのだろう。
 俺は不安と、得体の知れない強大なものに対する恐怖で、ブルリと震えたのだった。