地平線に太陽が顔を出す、ちょうどその直前の頃。 俺とジャハーンは、レーィを祀る神殿の奥の部屋で、儀式が始まるのを待っていた。 少し前までは、祭壇の支度や儀式の工程の確認などで、周囲に物音が耐えなかったのだけれど、今はとても静かだ。 聞こえる音といえば、灯火の燃える微かな音と、大河の流れる音だけだ。 儀式は夜明けと共に始まる。 だから今、皆息を潜めるようにして日の出を待っているのだ。 「何を考えている? 潤」 椅子に深く腰掛けて、じっと暗闇を見つめていたジャハーンが、静かな声でそう問いかけてきた。 考えてみれば、不思議な声だ。 どんな小さな囁きでも、ジャハーンの声には覇気というのか……聞くものを圧倒させるような力を帯びているような気がする。王となるべく育てられ、王たるべき存在として生きてきた、その月日の積み重ねがそんな声を生み出すのだろうか。 「何も……別にたいしたことは。ただ、静かだなと思って」 そう答えた俺に、ジャハーンは少し首を傾げて、それから腕を差し伸べて来た。 俺は吸い寄せられるようにその腕に手を伸ばし、優しく引かれるまま、たくましい膝の上に横向きに座った。 「私は、色んなことを考えていた」 すぐ耳元で、ジャハーンはそう呟く。 「お前と二人、ここでこうしているのが……まるで奇跡のように思える」 「奇跡?」 「そうだ。夫婦となるべく定められた私とお前だというのに、お前はちっとも私になつかんし、ようやく心が通じ、夫婦になれたと思ったら、遠くへさらわれてしまう……ようやくこの腕の中に取り戻したと思っても、すぐにすり抜けて行ってしまって、ちっとも心安らぐ時がない」 「ジャ、ジャハーン」 それを言われると、ぐうの音も出ない。 「だからさ、それはさ……本当に悪かったと思ってるよ。でも、俺だって」 「話は最後まで聞かぬか」 軽く額をつつかれて、俺はジャハーンの顔を見上げる。 「それでも……どんなに心かき乱されようと、それでも私の嫁は、私が仕えるべき者は、お前だけなのだ、潤。どんな苦痛があったとて、お前をこうして抱きしめる喜びが、全てを打ち消してしまう。お前は強い男だ。こんなに華奢な身体をして、こんなに傷つきやすい心をして……それでも何度も立ち直り、自ら私の元へ帰ってくる。私がお前をけして諦めぬように、お前もけして私を諦めることはない……それを感じる時の歓喜といったら、この世に比べるものがあろうか」 「俺、俺だって」 俺は、灯火の明かりに揺らめくジャハーンの金色の瞳を、食い入るように見つめた。 「あんたがいるからこそ、全てを捨てたんだ。ジャハーン……あんたが居れば、何もいらない。贅沢な暮らしも、権力も、何もいらない……あんたがいるなら、どんな世界だっていいんだ」 「何もいらぬ、か……だが潤、私は王だ。この命尽きる時まで、いや死した後とて、太陽王なのだ」 「……ウン、わかってる。ジャハーンが王であるというなら、俺もそれについていくだけだよ。王妃として、出来る限りのことをやっていく。それがあんたの愛に答える方法なら」 「心強いことを言ってくれる」 ジャハーンは笑って、俺を軽く揺すった。小さな子供をあやすようなその動作は、俺を少しくすぐったい気持ちにさせる。 「これからは、今以上に忙しくなるだろう」 少し硬い声でそう言うのに、俺はハッとして息を飲んだ。 「アスワン王国の政権は、完全に新国王のものに移った。ユクセル王は賢い男だ。ちっぽけな自尊心や、虚栄心に惑わされることなく、最善の道を選んだ。そして……そして彼には野心がある。過去に二度もお前を手中に収めんとした。神子たる潤の価値を知り、それを利用する手立てをよくわかっている。アスワン王国は、これからますま手強い国となり、いつか敵となる日がやってくるだろう」 「ジャハーン」 「それに、どうやらあの男は神に愛されるべき王のようだ。お前の心を、わずかなりとも掴んだのだから」 「ジャハーン、それは違うよ。ユクセルとあんたに対する思いは、全く別のものだ」 「そうであろうな。お前は同時に二人の男を愛せる程、器用な人間ではない。もしそうであるのなら、私はこの世界の男という男を殺しているだろうよ」 「……オイオイ、怖いこと言うなって」 こいつが言うと、本気に聞こえるから怖い。 「お前が愛しているのは私だけだ。だが、お前は優しすぎる……誰に対しても、情けをかけすぎるのだ」 ……うーん、浮気をちくちくと責められているような気がするんですけど。 「言っとくけど、俺は絶対に浮気なんかしてないぞ!」 「わかっている。潤、私はお前を責めているのではない。むしろ、お前は今のままで良いのだ」 「え……?」 「その優しさがあるから、お前は誰よりも清く神聖なる存在なのだ。そう気がついた……お前を無理矢理縛ろうとするのは、神の意志に反することだと。私はきっと、少し方向を間違えていたのだな」 ジャハーンはそう言って苦笑した。 それは、俺が今まで見たことのないような表情だった。今までとは何かが少し違う……ジャハーンという、一人の大人の男の表情だった。 「私は私らしく在ろう。お前を心から愛し、敬い、そして信じると誓う。お前こそが私の魂……けしてそれを失わぬよう心がけると、今ここでレーィに誓う」 「ジャハーン」 どうしよう。涙が出てくるじゃないか。 ジャハーンばっかりいい男になって、俺はいつまでもこんな泣き虫だなんて、何だかみっともない。 だけど、嬉しくて……言いようのない気持ちが溢れてきて、全身が熱く震え出すのを止められない。 「潤、見ろ。陽が昇る」 ジャハーンが指差す方向、遥か地平線の彼方が、白っぽく輝いていた。 やがてあそこから、金色に輝く太陽が昇ってくるんだ。 「儀式が始まるぞ」 「うん」 「迎えが来る。涙を拭け、潤。そのような可愛い顔を皆に見せるのは許さん」 「可愛いって……あのなぁ、何度も言うけど、そんなこと言われても嬉しくないっつうの」 そう答える声が鼻声で、何だか情けなくなってきてしまう。 「それよか、格好いいって言って欲しいよ。なんか、あんたばっか大人の男になっちゃってさ……ズルイぜ」 ジャハーンは、片方の眉を上げてニヤリと笑った。 「つまらぬ嫉妬など、王はするものではない。何、散々苦しめられた仕返しは、儀式の後たっぷりとしてやるぞ……寝台の上でな」 「…………」 俺はあっけにとられてジャハーンを見上げた後、これ見よがしに溜息をついた。 「前言撤回。ったく、どーしようもないガキだな、このスケベ野郎!」 「すけ……? 何だ、一体それはどういう意味だ、潤」 「何だっていいだろ。ほら、準備準備。もーすぐ行かなきゃいけないんだろ?」 「おい、ごまかすのではない。また何かよからぬ言葉を言ったのであろう」 ぎゃあぎゃあ言い合う間にも、夜明けの光が部屋の中を明るく照らしていく。 「太陽王陛下、並びに神子。儀式の支度は全て整いました。いざ、お出ましを」 「わかった。今行くよ」 「潤、待たぬか。私の質問に答えておらんぞ」 「うるせーなあ。もう行くっつってんだから、後でいいだろそんなこと!」 「……わかった。ならば全てまとめて、寝台の上で聞くことにしよう」 「ブッ。お、お前、他人がいるとこでそーいうこと言うのやめろよな!」 「閨でだけは、泣いても許してやらぬぞ、潤。せいぜい覚悟をしておくのだな」 「覚悟って、何の覚悟だよっ! あーもう信じらんねえ。恥ずかしくないのかよあんたは。そっちこそ覚えてろよ!」 「言うたな、潤……楽しみなことだ」 「もう黙れっての!」 さして広くはない、その控えの間に、俺の怒鳴り声とジャハーンの笑い声が響き渡った。 太陽が、昇る。 シシロ大河の女神、レーィを讃える儀式が始まる。 神殿内の全ての人が、河に祈りを捧げる。 今この時、王国内の全ての人が、畏敬と感謝の思いを抱いて、朝やけの空を仰いでいることだろう。 ここは神々と太陽が支配する国だ。 その感覚に、俺はすっかり慣れてしまうことはできないだろう。どうあがいたところで、俺は異世界から来た人間に違いないのだから。 今でさえ、予知夢のことを思うと恐ろしくなる。 目に見えぬ強大な存在を感じると、身体が強ばり、足はすくみ、じっとりと冷たい汗をかくような心地がする。 でもそれは、この国でジャハーンの隣に居る為にも、耐えなくてはいけないことなのだ。 何故ならその恐ろしい力こそが、俺とジャハーンを結びつけたレーィの力なのだから。 未だにレーィという存在が本当に神なのか、一体神様って何なのか……よくわからない自分がいるのは確かだ。 だけど、誓いをたてる意味でも、今はレーィに祈ろう。 王国の人々の健康と平和を。 いつまでもこの国に太陽と水の恵みがあることを。 俺の大好きで大切な人たちが幸せであることを。 そして、自分のこの命が果てるまで、ジャハーンの側に在り続けることを。 眩しい太陽の周りが、オレンジ色に燃えている。周囲の雲が淡い紫やピンクに染まり、空は薄水色に晴れ渡っている。 ふと手に温もりを感じた。 ジャハーンが俺の手をしっかりと握っている。 見上げると、朝焼けを見つめるジャハーンの横顔があった。 厳しくも猛々しく、今となってはその中に優しささえ感じるその横顔。 俺はその愛しい表情を目に焼き付けると、再び視線を元に戻した。 雄大な大地に、堂々とその身体を横たえ、膨大な量の水を海に運ぶ大河。 ここが俺の故郷。 俺の帰るべき場所。 そう思ってもいいよな、レーィ。 ジャハーンの手を強く握り返しながら、俺は心の中で祈るように囁いたのだった。 第四章 神子と水の女神 完 |
あとがき ええと、これにて一応「太陽の王国」本編は終了でございます。 これまで応援してくださり、本当にありがとうございました! 連載当初に目標としていたところまで こうして書き終えることができたのも、 ひとえにサイトにおいでくださった方々のおかげでございます。 そして、BBSやメールでメッセージをくださったことは、 本当にみりんに力を与えてくれました。 このサイトはみりんだけで作っているのではなく、 サイトにいらしてくださった皆さんと一緒に作っているのだと、 心からそう思っております。 なお、「太陽の王国」の続章については 今のところ予定はありません。 でも、番外編などはちょこちょこ書いていくつもりですし、 短編という形で続き(あるいは5年後、10年後の話など)を 書くこともあるだろうと思います。 なので、本当の意味での完結ではないのですが、 一応当初の目標達成ということで、 ここで大きな区切りをつけさせていただくことに致しました。 何の告知もせずにいきなりの完結だったので、 きっと驚かれた方も多いのではないかと思います。 でも、ちゃんとチョコチョコ短編は書きますので、 そこらへんはご安心くださいませv ではでは、最後に再びお礼を言わせてください。 今まで本当にありがとうございました! これからも、FoxyFoxxy、ならびに「太陽の王国」を どうぞよろしくお願い致します! みりん 5th.Aug.2004 |