俺がこのわけのわからない世界に来て、どのくらい経ったんだろう。 わけがわからないままにあのジャハーンとかいうライオン男に好き勝手されて、日本とはあまりにも違う気候と身体と心のショックと、あとは今までの寝不足とか、多分色んなことが重なって……熱が出た。 まぁ、そりゃ熱も出るよなって感じだ。 けして俺がひ弱なわけじゃない。だってここのところ、メシだってろくに食べてなかったし、そのせいで体力落ちちゃってたんだと思うし、つまり何が言いたいのかと言うと、誰だってこんな目にあったら熱くらい出すよなっていうか……。 まあとにかく、 それですっかり寝込んでしまったので、正確な日時はわからない。たぶん一週間とか、そのくらいじゃないかな。変な病気にかかったんじゃないかってちょっとビビッた。 だけど今朝起きて、熱が下がっているのがわかった。今まで感じていた身体のだるさとか、頭の重さとかがすっきりしている。でも俺はそこで我に返って、豪華な部屋のベッドの上で途方に暮れていた。 とりあえずあいつにあんな目に合わされて熱が出たんだから、治るまで看病してもらえたのは当たり前かもしれない。 でも、これからどうなるんだろうか? いつまでもこうしてるってわけにはいかないし、そもそも帰れるのか俺は? ベッドに起き上がったまま、うまく頭が働かないままに漠然とした不安を抱えてボーッとしていると、浅黒い肌の子供が部屋に入ってきた。 ドアの無い出入り口のところで深々とお辞儀をした後、起き上がった俺を見てパッと目を輝かせる。 「神子、お加減がよろしいのですか?」 何か言ってる……嬉しそうな顔をしているから、多分悪い言葉じゃないんだろう。大丈夫ですか、とかそんな感じかな。 見た感じもいかにも賢そうだし、性格良さそうな感じだ。 「失礼致します」 男の子が手を伸ばしてきたので一瞬ビクッとなったが、熱を測ろうとしてるのかな、と思ってジッとしていた。 意外にも大きい手の平が、俺のおでこを触る。ちょっと荒れていて、けっこうタコとかもあって、何だか子供の手とは思えなかった。働いている人の手だなって感じだ。 「よかった、熱が下がったようですね」 男の子がニッコリと笑う。 うーん……何て言ってるんだろ? 俺の目が「?」を浮かべているのに気がついたのか、男の子が慌てたように手を離した。 「申し送れました。僕は、ピピと申します。恐れながら、伏せっておられる神子のお世話を仰せつかりました」 『は?』 俺は目を丸くした。なんじゃかんじゃ長々と話されたって、わかるわけがない。 「あ……あの、し、失礼しました。ええと……僕は、ピピと申します。あの、ピピ、です」 『ピピデス?』 男の子は困った顔をした。 「いえ、ですっていうのは名前ではなくて」 自分の顔を指さして、「ピピ」と言った。そこでようやく、俺はこの子がピピって名前なんだとわかった。 「ピピ」 ピピは安心したように、ニコッと笑った。 「あ、通じた……! そうです。それが僕の名前です」 いかにも外人って感じの顔だけど、そういうふうに笑うと俺よりずっと年下の子って感じがして、なんか可愛くてホッとした。言葉が通じなくても、この子ならうまくやっていけそうな気がした。 なんてことを考えていると、遠くの方から何人かの足音が近づいてきて、例のジャハーンがぽっかり空いたままの出入り口から顔を出した。 「おお、ジュン!今日は起き上がることが出来たのだな」 何か言いながら嬉しそうに近寄ってくるのを見て、俺は複雑な気持ちだった。 つーか、そもそも寝込む原因を作ったのはてめぇじゃねーかっていう気持ちと、この強姦野郎っていう怒りと、でも俺がうんうん言っている間こっちがビックリするぐらい心配して、オロオロして、色んな祈祷師(?)やら医者(?)やらを連れてきては俺を治そうとしてくれていたらしい、そのことに対する感謝っていうか、心配されるのはやっぱ悪い気がしないっていうか……何かうまく言えない。 ムカついてたし、まだ許しきれない気持ちもあるんだけど、どうもいまいち憎みきれないというか……。 こいつが俺に対する好意を全開にしてくるから、何かついつられそうになるんだよな。 って、別に俺がこいつを好きなわけじゃないけど! 全然、これっぽっちも! 俺がむすっとしていると、何を思ったのか心配げに顔を曇らせた。 「どうした、気分が悪いのか? 無理をするな、まだ横になっていると良い」 『うっせー、さわんなよ!』 「おお、そのような心細げな声を出して……良い、今日は私がついて居るゆえ」 『だから、さわんなっつーの』 俺がドスの効いた(と自分では思っているが)声でそう言っているのに、こいつは馬鹿力で俺の頭を枕に押し付けた。 くっそー……やっぱり、言葉が通じないと不便だな。 イライラしたら、何だか喉が渇いた。 俺はピピの方を見て(このライオン男に頼みごとなんて絶対にするもんか)、『喉渇いた』と言ってみた。 ピピは、「え?」って感じの顔だ。まぁ、そりゃ通じないよな。 そこで俺は、コップを持つような手の形を作って、飲む振りをしてみた。 『わかるかな、飲み物。水とか。ゴクゴク。飲みたいんだけど』 「あ、もしかして……お飲みもの、でしょうか?」 「オノンモノ?」 なんかわからなかったけど、聞き取れた言葉をそのまま繰り返してみた。 「はい。あの、飲み物、です」 「ノミモノ」 「はい。飲み物を、ご所望……あ、いえ、飲みたい、のですよね?」 「ノミタイ」 もしかして水って意味かな、と思って、俺はコクコク頷いた。 「ノミモノ、のみたい!」 「かしこまりました。只今お持ちいたします」 ピピはにっこり笑って、部屋を出て行った。 ……あ、しまった。そうすると、こいつと二人っきりになっちゃうじゃんか。 俺は横になったまま、ちらっとジャハーンを見上げた。 ジャハーンは金色の目で、じいっと俺を見つめていた。 『なに、見てんだよっ』 睨まれてるって感じは全然しないんだけど、瞬きもしないで見つめてくる金色の瞳は俺にとっては不思議な感じがして、自分の心を読まれているような錯覚さえ覚えてしまって――焦るあまり、チンピラみたいな口調でからんでしまった。 「ジュン、私の名前は教えたであろう」 俺の名前を呼んで、何か言ってくる。 『だから、何言ってるのかわかんないんだって』 「良いか、ジュン。お前はジュンだ。そうだな? では私は?」 ジャハーンが自分の胸に拳を当てた。 「わたい?」 「そうではない。お前は、ジュン。ジュンはお前だ。私は?」 何だ? 名前の話か? 「おまえ潤……わたいジャハーン」 「そうだ。私の名はジャハーンだ。良い子だ、覚えておったな。しかし言葉が違うぞ。言ってみろ、ジュン。わたしはジュンです、と」 もしかして、言葉を教えてくれてるのかな。 「わたーはジュンでしゅ」 「わたしは、ジュン、です」 うっ……発音が難しいぞ。 「わたいは、ジュン、でしゅ」 「わたし、だ」 「わたち?」 「うーむ……言い辛いか……では、僕でも良いぞ」 「ぽくてもおいぞ」 「僕はジュンです、だ」 「ぽくあジュンでしゅ、だ」 「最後の‘だ’はいらんぞ。言ってみよ。僕はジュンです」 「ぽくあジュンでしゅ」 「これも難しいか……では俺ではどうだ? 俺はジュンです」 「おれわジュンです」 「おお、言えたではないか!」 「おれわジュンです。おまえはジャハーンです」 「……う……む。まあ、合ってはいるのだが……。しまった、言葉遣いというものを忘れておったな……」 ジャハーンは何かぶつぶつ言っていたけど、俺はちょっと嬉しかった。得体の知れないこの国で、言葉を覚えるっていうとりあえずの目標が見えてきたからだ。発音はちょっと難しかったけど、これで三つの言葉を覚えられたわけだし、なんか案外うまくいくんじゃないかって気持ちにさえなってきた。 「おれはジュンです。お前はジャハーンです」 もう一度、覚えたての言葉を喋ってみると、ジャハーンはちょっと困ったように笑って俺の頭を撫ぜた。 →中編 →TOP |