今年も無事に、シシロ河は氾濫して豊かな水を湛えた。 王や王妃の仕事っていうのは、一年を通してなかなか忙しいわけだけど、中でもシシロの氾濫期は多忙だった。農地が水につかってしまった農民達を雇って、国のあちこちで建設事業や建築物、施設の補修作業が行われるからだ。そういうわけで、いわゆる管理職にある立場の人間はめちゃくちゃ忙しい。 俺も、シシロ河の水位を観測する施設の視察やら、王立学校(中級貴族から、商人や建築家の子供なんかが通っている)の視察、建築現場の労働環境のチェックやら作業申請書なんかのチェックやらで、毎日どたばたしていた。 日々勉強しているとは言え、なかなか思うように仕事の役に立てないのがもどかしかったけど、でも結局のところ、実際に現場を指導している専門家がそれぞれいるわけで……俺は彼らの話を聞いて学びながらも、自分なりにあれこれ質問して「ちゃんと俺は見ているんだぞ」ということを主張できればいいのだと、最近わかってきた。きちんと見て、聞いて、そして評価を下す。問題が起きた時は、もちろん俺の力では解決できないんだけど、話し合いで決まったことでも最終判断を俺の口から宣言する。評価も俺の言葉で与える。そんなことが、王妃という立場だからこそ求められるんだってわかったんだ。 男として、遣り甲斐のある仕事をするのはやっぱり喜びのひとつだ。まぁ、俺が女だったとしても変わらないとは思うけど。 急がしくてなかなか家でゆっくりできない、なんてことはない。 何故ならこの世界には電気なんてものはないからだ。 太陽が沈んでしまえば、もちろん仕事は終わり。簡単な書簡に目を通すことはできても、蝋燭や松明の灯りだけでは、そうそうたくさん仕事もできない。 そういうわけで、今日もそれぞれ働いてきたジャハーンと俺は、あれこれしゃべりながら夕食を一緒に摂っていた。仕事の話ばっかりしてるわけじゃないけど、お互いに伝えておいた方がいいだろうと思うことをゆっくり話せるなんて、この時期じゃ夕食時くらいなものだから、どうしても話題は公務のことになる。 「今年のシシロの水位は、去年より少し低いよ。キュービット(肘から中指の先端の長さ)くらい……」 「お前が測ったのか、潤」 「うん」 ジャハーンはちらっと俺の腕を見て、頷いた。 「これからの気候にもよるが……まあ案ずることはあるまい。去年増設した蔵も無事のようだし」 ジャハーンが言っているのは、いわゆる高床式の倉庫のことだ。ことそういった技術に関しては、王国の文化の深さに感心させられる。 「水の上に建っているんだから、通気性だけは気をつけないと」 暖かく、湿った場所というのは病原菌を発生させる原因になる。王国の人々には菌やウィルスの概念がないから、これだけは口を酸っぱくして言いたいのだ。 「わかっている」 ジャハーンはさらっと言って頷いたが、俺がそれに対して不満を感じることはもうない。ジャハーンは俺の意見で参考になるところは、きちんと取り入れてくれるとわかっているからだ。 俺もそれ以上はしつこく言わず、水とハチミツで割ったワインを飲んだ。 俺がこの国に来てもう何年も経ったけど――、この頃、ようやく俺もこの王国の人間になれたんだって思うことがある。この国で生まれたんじゃないかって錯覚してしまうほど。もちろん、懐かしい故郷や家族を忘れることはないけれど。 「潤、明日のことだが」 「何?」 「明日の午前の予定は変更だ」 「え?」 と言いながらも、強引なこいつにすっかり慣れてしまった俺は、食べる手を休めることなく続きを促した。 「何か急ぎの公務でもあるのか?」 「まあ、そうだな……」 今度はちょっと驚いて、俺は急いで口の中のものを飲み込んだ。 「何だ? はっきりしないな」 王族に生まれたせいか、ジャハーンはいつも呆れるほどズバズバと言葉を口にする。ジャハーンがこうして言葉を濁すことは、今まで数える程しかなかった。 「言えって。何するんだ?」 「うむ……建設中の神殿の、視察だ」 「視察?」 俺はちょっと肩透かしを食らったような気分で、クッションにもたれかかった。 「なーんだ、何かと思ったら……」 「なんだとは何だ。重要なことではないか」 「突っかかるなって。だって、あんたが珍しく口ごもったりするから、よっぽど変なことじゃないかと思うだろ」 「私は変なことを言ったことなどないぞ」 「わかった、わかった。で、いつ出発するんだ?」 「明朝、日の出の後だ」 「了解。じゃあ、今日は早く寝ようぜ」 途端にきらめくジャハーンの黄金の瞳に、ニヤッと笑いかけた。 「明日は早起きだもんな。夜更かしは厳禁」 「……潤」 「そんな顔しても無駄。さ、湯浴みして寝よっと」 ううう、と獣のように唸るジャハーンを尻目に、俺はさっさと広間を後にした。 ――どうせ、湯殿で捕まってその後付き合わされるのはわかってるんだけどさ。 →2 →TOP |