「潤、私の潤。お前を愛している」
 ジャハーンが俺を突き上げながら、熱っぽい声で言った。
 そのよく日に焼けた顔に汗が浮かび、つうっと流れて、顎から滴り落ちた。それを肌に感じながら、俺は高みへと昇り詰める。そのたくましい身体をぶつけるようにして、ジャハーンはいつも俺を愛するんだ。逃げたくても、逃げられない。俺は苦しくて、助けて欲しくて、ジャハーンに縋り付く。するとジャハーンはその何倍もの力で俺を抱きしめ、激しく俺を求めるのだ。
「潤、聖なる神子、お前を愛し、敬い、仕えると誓おう……」
 何故そんなにも俺なんかを必要とするのだろう。俺が神子だから? 俺が神子じゃなかったら、見向きもしないのか?
 いつも考えまいとしていたことを、何故今日に限ってこんなにも強く思うのだろう。
 ジャハーン、助けてくれ。
 俺は、苦しいんだ。どうしたらいいかわからない。
 俺は神子なんかじゃない……何の力も持ってない。あんたははきっと勘違いをしてるんだ。間違ってるんだ。
 だからこれ以上、俺のことを求めないで欲しい。俺のことを愛さないで欲しい。
 もうこれ以上……俺にあんたのことを……。

 自分の嗚咽で目が覚めた。
 俺は泣きながら、夢を見ていたんだ。
 ゆっくりと重い体を起こして、涙を拭った。……馬鹿みたいだ。
 ひどく喉に乾きを覚えてそのまま寝台を降りようとした時、自分の服が変わっていることに気がついた。俺が今来ているのは、シルクだろうか、スルスルとした肌触りの柔らかい夜着だった。当身をくらわされた鳩尾にも、膏薬が塗られて布が巻いてある。俺はかなり驚いて、しばらく固まってしまった。一体何だ、この待遇の良さは。俺は、ユクセルに嫌われているんじゃなかったのか? こうやって手当てをしてくれるっていうことは(もちろんユクセルがやったんじゃないんだろうけど)、少なくとも奴も人間だってことだ。
 ……そういえばあの時、あいつは具合の悪い俺に同情して、お茶をくれたんだよな。警戒して飲まなかったけど。あの優しさは偽物だったんだろうか? 俺の正体を知って近付いて来たんだろうか? でもそれなら、その場でさらうことだって出来た筈だよな。……なんか、よくわからなくなってきた、あの男が。
 混乱した頭をぶんぶんと振って、俺は船室から出てみた。
 河の上を走る風は、熱い大気の中で爽やかだった。俺の寝起きで火照った体を心地よく冷やしてくれる。雲ひとつない空には、白い鳥がたくさん飛び交っていた。
 うわぁ、鳥だ!
 俺はこんな状況だというのに、はしゃいで船べりに駆け寄った。猫の鳴き声のような声を発して、鳥達が華麗に舞う。その様子を飽きずに眺めていると、背後から声をかけられた。
「鳥がそんなに珍しいのかい?」
 ユクセルだった。
 振り向くと、例の優しげな微笑を浮かべていた。
「怪我の具合はどうかな?」
 俺は一瞬ためらったけれど、それでも一応礼を述べて置こうと思って、頭を下げた。
「手当て、ありがと」
 ユクセルはびっくりしたような顔をした。そんな表情初めて見たので、俺も驚いた。
「……礼を、言われるようなことじゃない」
「でも、少し、平気、なった」
「……それなら、良かった」
 何となく気まずい沈黙が降りる。
 気まずいというか、何というか……妙にほのぼのとした会話に、お互いくすぐったくてムズムズしてるような感じだ。俺は船べりに置いた手を、意味もなく開いたり閉じたりしていた。
 ふいに、頬に何かが触れて、俺は大袈裟なくらいビクッと反応してしまった。
 ユクセルが、手を伸ばして俺に触れたのだ。親指の腹で、目の下を擦られる。
「泣いていたのかい?」
「な、泣いてなんか、ない」
「でも跡がついてる」
「これは……ええと、欠伸のせい」
 我ながら苦しい言い訳だ。ユクセルがくすっと笑った。
「君は気が強いのか弱いのか、よくわからない子だな」
 うう……どうせ俺はビビリのくせに、負けん気が強いよ。放っといてくれ。
「ユクセルだって、優しいのか、優しい違うのか、わからない」
 言い返してやると、怪訝な顔をされた。
「僕が優しいかどうかわからない、だって? 君は頭が悪いんじゃないかい。僕が優しいわけがないだろう」
「だって、お茶くれた、でしょ? 心配した、でしょ? 俺のこと」
「ああ……あれかい。別にあれは、ジュンがてっきり貴族の息子か何かだと思ったから、あわよくば利用してやろうと思っていたのさ。お馬鹿さんだねえ、君は。見せかけの優しさに簡単に騙されてしまうんだな」
「それは、そうかもだけど、でも違う」
「何が違う?」
「利用する気持ち、あったかもしれない。でも、心配する気持ちもあった。でしょ?」
「……何が言いたいのかわからないよ」
「だからっ! 偽ものの優しさ、でも偽ものだけじゃない。ホントの優しさ、ある。そういうこと!」
 俺は一体何をこんなにムキになっているんだ? いくら馬鹿にされたのが悔しいからって、何でこいつの優しさについて力説しなけりゃならないんだ。あっけに取られたようなユクセルの顔を見て、何となくばつの悪い思いになり、目を反らせた。アホか俺は。こいつは、敵なんだぞ。
「……君は卑怯だな、ジュン」
 はあっ? お前に言われたくないよ。
 ていうかどうして卑怯とかいう言葉が出てくるんだ? 思いっきりわけがわからんという顔をしてみせると、ユクセルは笑みの消えた表情のまま、吐き捨てるように言った。
「涙をいっぱい溜めた目で、怯えてみせる。そうして他人の心にズカズカ入り込んで、綺麗な言葉を言ってみせる。それが卑怯だと言っているんだ」
「そ、そんなの……わざとじゃない!」
「わざとじゃないなら尚更卑怯だよ。そういうお綺麗なところが、ひどく癇に障る」
「なっ……」
 俺は何か言い返してやろうとして口を開いた。でも何も言葉が出てこなかった。
「ほら、今もそうだ。傷ついた顔をして、相手を悪者にしている」
「そんな、そんなことっ」
「しているんだよ。そんな顔をされたら、それ以上ひどいことが出来なくなるだろう。だから卑怯だと言っているんだ」
 こいつ、ひねくれるにも程があるぞ! 何でそういちいち穿った見方をするんだよっ。
「そ、そんなのそっちの勝手!」
「ああまったく、君を見ていると苛々するよ。でももっと苛々するのは……僕だ……何で君なんかに……僕は」
 苦しげに呟いてユクセルはクシャッと顔を歪めた。俺は一瞬こいつが泣くんじゃないかと思った。だけど目を閉じて大きく深呼吸をしたその後、もう例の優しげな顔に戻っていた。
「僕は絶対に、玉座についてみせる。その為にはどんなことすらやってみせる。王妃を殺し、兄王子を殺す。その子供達も皆殺しにしてやる。王たる者に優しさなど必要ない。そんなもの、必要ないんだよ」
 俺はその物騒な言葉を聞きながら思った。この優しげな表情は、ユクセルにとっての鎧なのだ。優しい笑顔の仮面を被ることで、優しさを殺そうとしている。そんなにまでして、玉座につきたいのか。
「……今夜、君を抱く」
 えっ。
「食事をして、体力をつけておきなさい。優しくはしてやれそうにないからね」
 そう言うなり、ユクセルは背を向けて歩いて行ってしまった。まるで逃げるかのようだった。
 ああでも待てよ、今あいつは何て言った?
 今夜、俺を……抱く、だって?
 うわあああ、勘弁してくれよ。一体何だって俺はジャハーンに続いて、ユクセルにまでカマ掘られなきゃならないんだよ。しかもジャハーンもユクセルも根っからのホモというわけじゃないのに。ていうかユクセルなんて俺を軽蔑してるってのに。
 何なんだよこれは。俺はホモの神にでも祟られてるのか? どうして好かれても居ない野郎に抱かれなきゃならないんだよおおお……。別にジャハーンになら抱かれてもいいってわけじゃないけど。
 ていうか、ジャハーン、あの野郎! 何やってんだ。俺のこと愛してるだとか好きだとか言うなら、助けに来いっつーの。俺があいつに抱かれてもいいのかよ! 馬鹿野郎。
 俺、逃げらんないんだからな! 絶対力でなんか敵いっこないからな! そりゃ抵抗するけど、でも絶対犯られちゃうぞ。それでもいいのかっ!ジャハーンのアホ、ボケ、間抜け! オタンコナス!
 俺……俺、嫌だからな。嫌なのにあいつに抱かれて、それでお前が怒ったりする権利なんてないんだからな。別に女じゃあるまいし妊娠するなんてことはないだろうけど、でも、俺、汚れちまうんだからな。それでも、お前、俺のこと好きって言い続けられるのかよ……。

 どんなに逃れたくても、無情にも時間は経ってしまう。
 俺は大きな天蓋つきの寝台の上に正座をして、固まっていた。同じ初夜(としか言いようがない)でも、ジャハーンの時とは大違いだ。あの時は風呂に入れられて、香油で身体をつるつるぴかぴかに磨き上げられてからまな板にデンと乗せられたって感じだったけど、今回ときたらひどいもんだ。俺はこの暑さの中丸一日以上風呂に入ってないから、自分ではわからないけどきっとかなり汗臭いだろう。ただでさえ嫌なのに、こんな身体を人目に晒さなきゃならないのかと思うと、もう本当に死にそうな気持ちになる。あー、我ながら何て女々しいんだ俺は。
 そんなことをグルグル考えていると、突然声もかけずにユクセルが部屋に入って来た。俺はもうかなりびびってしまって、あいつの顔すら見れない。手はブルブル震え出すし、冷や汗がどっと出てきた。
「ずいぶん緊張しているようだね」
 ちょっと意外そうな声に、俺は突っ込みを入れることもできない。注射を待っている時の百倍くらいの緊張感だ。喉はカラカラだし、今何かしゃべったら絶対に情けない声になるだろう。
 ユクセルは少し溜息を吐くと、寝台に腰をかけた。それだけで俺は逃げ出したくなる。
 顎を掴まれて、上を向かせられた。
「優しくはしてやれないけど、そう乱暴にするわけじゃない。少し力を抜きなさい」
 そんなこと言われたって、無理だっつうの!
 ユクセルはじっと俺を見つめていたが、やがてゆっくりと顔を近づけてきた。そのまま俺は、彼のキスを受け入れる。
 すぐに唇を割って入り込んで来た舌に、俺はまたもや違和感を感じて泣きたくなった。
 違う、こんなんじゃない。
 ジャハーンはいつも、激しく、だけど不思議なくらい優しく俺にキスをする。何度か唇を軽く啄ばんだ後、ねっとりを唇を舐めたかと思うとそのまま中に進入して来て……上の歯列と上顎を舌先で丁寧になぞって、おびえる俺の舌を優しく、だけど有無を言わせぬ強引さで絡め取るんだ。俺はいつもそれだけでメロメロになってしまう。
 違う、違うんだ。こんなんじゃないんだ。こんなやり方じゃない。
 俺が眉をしかめて身を捩った時だった。
「失礼致します、ユクセル王子!」
 部屋の外で、男の声がした。部屋に入ってくることはしないものの、俺は恥ずかしさのあまり枕に顔を埋めた。こんな所、人に見られたくなかった。
「なんだ」
 冷静なユクセルの声が応える。男は、ひどくうろたえた様子で言った。
「前方に、軍艦数隻が。完全に包囲されました……!」