「何だって!?」
 ユクセルはまさか、という風にその男を振り返った。
「いくら何でも、こんなに早く追いつかれる筈がない!それも先回りされるなんて……ありえない!」
「ですが、確かに太陽王の紋章を掲げております」
「なっ……」
 絶句したかと思うと、ユクセルは部屋を飛び出して行ってしまった。きっとその軍艦とやらを見に行ったんだろう。俺はベッドの上に座り込んで、状況がよく理解できないまま呆然としていた。
 何だ……何処の軍艦が来たって? 包囲されてるってことは、ユクセル達にとって敵ってことか? 太陽王の紋章っていうことは……もしかして……もしかして、ジャハーン?
 青褪めていた自分の顔に、カァーッと血の気が上るのがわかった。ツンと鼻の奥が痛くなる。ジャハーン、お前、俺を助ける為に追いかけてきたのか? ほんとに、お前なのか?
 しばらくすると、苦々しげな顔をしたユクセルが戻って来た。
「ユクセル、誰、誰?」
 飛びついて聞くと、ユクセルはがばっと俺を抱きしめて唸った。
「……ご期待通りだよ。だが、太陽王本人じゃない」
「えっ?」
 拍子抜けしたが、ユクセルの言葉は続いた。
「いくらなんでも、それなら追い越された時点でわかるだろう。太陽王は多分後から追ってきている……先回りしたのは、同盟国ジグラッドの軍艦さ」
「どう、どうするの?」
「……決まっているだろう。君を彼にお返しするよ。君に危害を加えれば僕らの命はないし、第一君なくしては僕の王位も不可能になってしまうからね。……だけどそれも今だけだ。今は一旦煮え湯を甘んじて飲もう。だがいずれ……いずれ君を取り戻す。君を僕のものにして、王位を勝ち得て見せる!」
 そのままぎゅうっと息も出来ないほど抱きしめられた。
「絶対に僕は、王位を得て見せる! 君を、得てみせる!」
 ぐーるーじーいー。何でもいいからとにかく放してくれ。死にそうだ。
 ようやく解放されると、俺は床に座り込んだ。あー、苦しかった。
 だけど息を整える間もなく、数人の男達に担ぎこまれるようにして移動させられる。
「え? 何?」
 俺は戸惑ったが、男達は無言のままどんどん歩いていく。
 そのまま河に浮かべられた小舟に乗せられたので、俺は驚いて振り返った。だけどユクセルの姿はそこになかった。甲板には険しい顔をした男たちが数人、ばたばたと忙しなく動いているだけだ。唯一俺と一緒に小舟に乗った男が、無言のまま櫂を漕ぎ出す。
 ユクセルは、今何処の部屋にいるんだろう。
 あいつ、無事に自分の国に戻れるんだろうか。
 俺はあんな目に合わされたというのに、いまいちあいつを憎めないでいる。理由は……よくわからない。何故だろう。あいつが俺のことを嫌っているのはわかっているし、俺だってあんな男に身体をいいようにされてたまるもんか。そう思うのに。
 船はみるみるうちに遠くなって行った。
 そういえば俺は、何処に向かっているんだろう? ひょっとして俺、帰れるってこと?
 ジャハーンのとこに帰れるのか?
 そう思って、ふいに俺はヒヤリとした。
「帰る」って何だよ、「帰る」って……。俺の帰るところは、日本だろう? あのホモのところじゃないだろう?
 だけど俺は、ユクセルに捕まってる間ずっと思っていた。ジャハーンのところに帰りたいって。
 なんだこれ。なんなんだ? この気持ちは。

 数分後には、俺はその何とかっていう国の馬鹿でかい船に引き上げられていた。なんじゃかんじゃ言われながら、やたらと豪華な部屋に連れて行かれる。なんだかやたらと待遇がいい気がするけど、やっぱりジャハーンの影響なのかな?これって。
 しばらくすると、変な鎧のようなものを着たおっさんがやって来た。
 盛り上がった筋肉と、口ひげが勇ましいそのおっさんは恭しく礼をすると、俺の前に膝をついた。
「お初にお目にかかります。私はジグラッド王国の海軍将軍、ハッサドと申します。この度神子におかれましては、さぞつらい思いをなさったことだろうと拝察致します。しかしもう心配ございません。私共がこの命かけて神子を太陽王の許へとお返し致します。それまで少しの間、むさ苦しいところではございますが、どうぞお寛ぎくださいますよう」
 えーと……あんまり難しい言葉は理解できないんだけど、まあ、とりあえずもう安全だから落ち着けよってことだよな?
「さぞやお疲れのことでしょう。あまりお騒がせしては却ってご無礼かと存じますので、私はこれで失礼致します。何かご所望あらば、部屋の外に数名控えさせておりますので、どうぞお申し付けください。それでは」
 ハッサドと名乗ったいかついおっさんは、再び深々と礼をすると部屋から出て行った。俺は呆気に取られたままそこに立ち尽くしていた。
 なんか、実感ないけど……もう大丈夫なんだよな。
 なんとなくジャハーンが力ずくで助け出してくれる、というのを想像していた俺は(それもどうかと思うが)、助かったという実感がなかなか湧かないでいた。ここも、他所の国の船の中だっていうことに変わりはないし。
 だけど、ふかふかの寝台を目にすると、急にドッと疲れがこみ上げてくるのがわかって、俺はそこにもぐりこんだ。
 ここ数日の間、目まぐるしく状況が二転三転したのだ。ずっと緊張しっぱなしで、正直体力の限界だった。俺は寝台の中で自分の考えを整理するつもりでいたけど、枕に頭をつけるなりスコンと眠りに落ちてしまった。

 ジャハーン。あいつは一体何なんだろう。
 子供の頃から定められた嫁に恋焦がれて、今俺をその嫁だと信じきっている。あの怖いくらいの愛情は、一体何処から生まれてくるんだろう? どうして俺がその嫁だと信じて疑わないんだろうか。どうしてあんなにも俺を愛することができるんだろうか。
 ジャハーンはいつか、俺から離れていくだろう。そんな気がして、俺は逃げ出したくてたまらなかった。
 今こうして側から離れてみて、俺は自分の気持ちに気がついてしまった。
 俺は、あいつの心が離れていくのが、すごく、怖い……。
 だからその前に、元の生活に戻ってしまいたかった。あれは悪い夢だったと言えるうちに、忘れてしまえるうちに。だけどもう、あいつの存在はこんなにも深い所まで踏み込んできている。
 俺は一体どうしてしまったんだろう。いくら愛されていたって、あいつは男なのに。男すぎるくらい男なのに。どうしてあんな奴をこんなに必要としてしまうのか。
「ジャハーン……」
 俺はジャハーンの名前を呼んだ。すると、何かに包まれるような気がした。何だろう……力強く、限りなく優しく、温かいその存在。
「ジャハーン」
「……潤」
 ジャハーンの低い声が聞こえる。
 ああ、俺また性懲りもなくあいつの夢を見てるのか。
「ジャハーン」
「どうした? 私はここにいる」
 耳のすぐ側で聞こえるような、囁き声……妙にリアルだな……。
 俺はうっすらと目を開いた。そこには、とろけそうな目をしたあいつが居た。
「え……ジャ、ハーン?」
「そうだ、私だ。潤」
 夢じゃない。
 俺はジャハーンの腕の中に居た。
 何だそれ。不意打ちだ。ずるすぎる。
 俺は不覚にも涙をボロボロこぼして、あいつにしがみついてしまった。
「ジャハーン、ジャハーン!」
 するとあいつは強く抱き返してくる。
 甘い苦しさ。
 今ならわかる。あいつはどんな時も、俺が苦しくならないように手加減していたのだと。
「潤、遅くなってすまなかった……無事で、よかった」
 低い呟きに、俺は何て答えたら良いのかわからなかった。思いが溢れて、言葉にならない。
「お前にもしもの事があらば、私は狂っていただろう……潤、潤! 無事で良かった。本当に良かった!」
 どうしてこいつは、俺が欲しいと思っている言葉をきちんとくれるのだろう。その言葉だけでもう、俺には何の迷いもなくなってしまう。
「ジャハーン……俺……俺」
「良い、もう何も言うな。お前が無事に帰ってきたということ、それだけで良いのだ」
「え?」
「ユクセル王子が男色の趣味を持つとは聞いていないが、美しいお前を前にして何もせぬ筈が……クソッ! 今は約束通り見逃したが、次相見えた時は生きては帰さん! ……し、しかし良いのだ、潤。私は、お前が生きて戻って来たという、それだけでもう十分だ」
 ……もしもし。
 何か誤解しているようですが。
「ジャ、ジャハーン……俺、あの、その……されてない、から」
「うん?」
「だから……その、ユクセルに、犯す……されてない……から」
「何っ? そんなわけがあるか!」
 ジャハーンがやけに自信満々に言い返した。
 いや、確かに危ない所までは行ったんだけどさぁ。普通、男がそう簡単に野郎を抱けないだろう。
「されてない、本当だよ」
「なっ……し、信じられん。ユクセル王子は、不能だったのか……」
 おいおい、なんでそうなるんだよ。
「潤を前にして、何も感じないなどという男がいるのか……まったくもって信じられん。だが……私は嬉しいぞ。お前が誰の手に落ちようと、私の愛する神子であるということに変わりはないが……だが、それでも」
 まだしぶとくブツブツ言ってるジャハーンに、俺はキスをしてやった。
 せっかくの再会だっていうのに、おかしなことを考えてる場合かって、そう言ってやりたくて。
 だけどジャハーンはその一瞬のキスに目を見開いたまま、硬直してしまった。
「え……あ、あの、ジャハーン?」
 俺がジャハーンの目の前でヒラヒラ手を振ると、あいつはハッと我に返った。そして、例のウルウルした目をした。
「潤……お前からの口付けは、初めてだな」
 え、そうだったっけ……そうかもしれない。
「潤、愛しい潤。何故そんなにお前は愛らしいのか……何故そんなに私の心を捉える? 私を殺す気か」
「はあ? 何で殺す?」
「愛しさに胸が潰れてしまいそうだ。潤……お前を愛している」
 吐息のような言葉と共に、ジャハーンの唇が下りて来た。
 息もつかせない、甘く苦しく、激しく優しいキス。
 待ち焦がれていたそれに翻弄されて、俺は身体の奥がジンと痺れるのを感じた。
 俺、本当に帰ってきたんだ。この男の腕の中に。
 涙をにじませた目でジャハーンを見上げると、夜明けの薄暗い部屋の中で、熱をたたえたあいつの目が俺をジッと見つめていた。俺はこみ上げる想いと快感への期待に、ゴクリと息を飲んだ。