「神子、ご所望の書物をお持ち致しました」
 控えめな声に振り返ると、俺の部屋の入り口に、重そうな本をたくさん抱えたピピが立っていた。
 ピピはジャハーンが俺につけてくれた世話係みたいな子供で、俺がどんなに形式ばらなくていいから、と言っても丁寧な物腰を崩さない、しっかりした少年だった。
「ありがと、ピピ。重い、大変」
 俺はここ一ヶ月の間で、この国の言葉に大分慣れてきていた。
 難しい言葉はまだよく分からないけれど、日常生活程度のリスニングならかなり出来るようになったし、片言だけど話せるようにもなった。何しろこの土地には、現地語以外話せる人間が誰もいないので、とにかく言葉を覚えないことには何も始まらないのだ。勉強がお世辞にも得意とは言えない俺も、だから必死に頑張ったというわけ。
 俺が慌ててピピの手から本(というより、紐で簡単に閉じられた厚めのプリントって感じ)を受け取ろうとすると、ピピはとんでもない、という風にぎゅっと本を抱きしめた。
「いえ、神子にこんな重い物をお持たせしては、王に叱られます」
「え? だって、俺男。ピピ子供。だから持つよ」
 いくら何でも、自分より3つから4つは年下なんじゃないかっていう子供に重い物を運ばせて、知らん振りは出来ないだろう。そう思って手を伸ばしたけど、ピピは小走りに俺の手をすり抜けて、テーブルの上に本をどさっと置いてしまった。うわ、腕が赤くなってる。
「ピピありがと。でも重い、腕痛い、つらい、でしょ? 俺持てるよ」
「神子、ピピごときにそのようなお言葉、もったいのうございます。ピピはこれが仕事ですから、平気です」
「そう、それ!」
 俺が急に大声を出したので、ピピはびくっとなってそのまん丸な目で俺を見上げた。
「それおかしいよ。ピピ子供。働く、かわいそう」
「えっ?」
「勉強、しない?‘学校’……ええと、みんな、集まる、勉強しない?」
「僕、勉強しました。だから、こうやって宮殿で働くことができるんです。神子のいらした世界では、子供は働かないのですか?」
「子供、勉強する、遊ぶ、それ仕事」
 俺は、我ながら年寄りみたいだな〜と思うことを、必死になってピピに説明していた。何かさ、この子見てると居たたまれない気持ちになるんだ。こんなガキのうちから、召使いみたいなことして、俺の顔色見てペコペコ頭下げたりなんかして、かわいそうじゃない? 俺がこのくらいの歳の頃なんて、なーんにも考えずに遊び呆けてたっつーのに。
「でも、僕はとても恵まれているんです。こうして神子のお世話を申し付かるなんて、今でも信じられません。僕の一族で、後世まで語り継がれる誉れだと思っています」
 そうして、キラキラした目で俺を見上げる。ダメだこりゃ。
「そ、そう……ごめんなさい、変なこと言った」
「いいえ、そんな! 僕幸せです。僕のような召使いを心配してくださるなんて、神子はお優しくていらっしゃいます」
 つまり、万事がこの調子なんである。
 俺はどうやら神の使いとか、そういうありがたい存在なんだと思われていて、みんなして俺を崇め奉ってくれるわけだ。誤解を解きたいけど、俺の語彙能力ではまだ不可能みたいだし、変に説明してここから追い出されるようなことになっても困るので、今のところそのままにしている。
『さてと、じゃあ今日も勉強しますか、と』
 日本語で呟いて、俺はテーブルの前の椅子に座った。
 俺が柄にもなくこんな風に勉強しているには、切実なわけがある。
 俺は、帰りたいんだ!
 声を大にして叫びたい。
 こんなわけのわからない、めちゃくちゃに暑くて、朝と夜は寒くって、そんで文明が遅れまくってるような所とは、さっさとおさらばしたいのだ。あの精力の固まりのようなくされホモから開放されて、クーラーと暖房とダチとゲームとTVと音楽とおいしい和食のある、日本に帰りたいんだよ!
 でも、どうやって帰ればいいのかさっぱりわからない。第一、どうやってここに来たのかもわからない。一つわかっているのは、どうやらここは俺が住んでいた地球のどこにも存在しない場所であるらしい、ということだけだ。だっていくら何でも、車も自転車も水道もTVもない、おまけにラジオも新聞もない、そんな場所が今の地球に存在するのだろうか?いや、たしかにアマゾンの奥地とかに行ったらあるかもしれないけど……こんな広い土地で、こんなリッチな生活で、この文明の遅れよう。俺の言葉も、常識も何ひとつ通じない、そんな場所があるか? いやない。
 というわけで、俺は不思議の国に紛れ込んでしまったんだと確信している。
 だから、せめて俺が目を覚ました時に倒れていた、あの河に戻りたいんだ。あの河に行けば、ひょっとしたら元居た世界に戻れるかもしれない。藁をもすがる思いでそう考えているというのに、俺はこの建物(どうやら呆れることに、この建物ばかりか、広々と広がる街のようなこの敷地全部が、ジャハーンの城というわけらしい)から一歩も出してもらえなかった。
 なので、俺は今密かに脱出計画を練っている。
 その為にはまず言葉! である。とりあえず完璧な会話、そして簡単な読み書きが出来ないことには、何も始まらないからだ。そういうわけで、ほぼ毎日こうしてテーブルに噛り付いてお勉強しているのだった。
 そうそう、くされホモのことを説明しなければならない。
 あの日、おぞましいことに、あのムキムキマッチョに俺は気を失うまで犯された。
 確かに、痛かったけど気持ちよくないわけではなかったし(というかけっこう……いやかなり気持ちよかった)、優しく、それでいて情熱的に求められて、何かちょっとかわいいヤツとか思っちゃったのも確かだけど、それとこれとは別問題である。俺は、ホモにはなりたくない。
 別にホモを特別差別しようという気持ちがあるわけじゃないけど、ホモにはトラウマがあるんである。
 俺はガキの頃からまつ毛はばちばち、体つきはとにかく細くて白いというもやしっ子で、小中学校の頃のあだ名は「カマ男」であった。好きな女の子には見向きもされないし、なんだかやたらガタイのいいガキ大将みたいな奴らばっか側に寄って来るという、苦い思い出がある。それに、何度か変な痴漢オヤジに追い掛け回されたこともあった。だから、高校生になったらたくましく成長を遂げ、かわいい彼女を作り、薔薇色の青春を送ろうと夢見ていたのだ。それが、高校一年の夏休みを目前にして、こんなことになるなんて……俺は悲しい。
 ……ええと、少し話題が反れたので戻すことにする。
 あの屈辱的な一日から数日して、俺は一週間ほど寝込んでしまったのだ。
 多分このところずっと寝不足が続いていたのと、栄養不足気味だったところに、急にあんな激しい行為を強いられたのが原因だと思う。それに、ここのめちゃくちゃな気温差もきいているんだろう。
 体温計がないのではっきりとはわからないが、かなりの高熱を出してうんうん寝込むことになった。
 その間、ジャハーンはこっちがびっくりするくらいに取り乱していて、やれ医者だの、やれ(怪しげな)術者だの、祈祷師だの、預言者だのと、色んなヤツを呼び出しては大騒ぎをしていた。
 まあやり方はともかく、心配されることに関して悪い気はしない。特に、知らない土地で病気になって、心細い思いをしている時には。
 そして無事全快し、その後しばらくは、ジャハーンはおとなしくしていた。俺を寝室に連れ込もうとはしないし、俺の部屋に来ても、なんじゃらかんじゃら熱っぽく語るだけで、何もせずに自分の寝室に帰って行った。
 そして今は…………うう、あまり言いたくない。

 何だか勉強する気にもなれなくて本を前にぼーっとしていると、ピピの小さな声が聞こえた。
「お邪魔いたして申し訳ありません。ですが、夕餉の支度ができたようですので……」
 ああ、もうそんな時間か。
 ここの晩飯の時間は、割と早い。
 まだ夕方のうちから食卓について、夜までゆっくりと時間をかけて食べるのだ。
「うん、今行く」
 ちっとも目を通していない本を閉じると、俺はピピに案内されるままに居間(と俺は勝手に呼んでいる)へ歩いていった。

 広々としたそこには、テーブルや椅子などはない。
 絨毯の上に料理の乗った大皿をどかどか置いて、クッションの上に座り込みながら手づかみで食事をするのだ。とてもワイルドである。
「おお、来たかジュン。さあ、こちらへ座れ」
 俺の姿を見つけると、ジャハーンはその強面に笑顔を浮かべながら手招きをした。
 俺は、ジャハーンの横に置いてあるクッションの位置を少しずらすと、そこにあぐらをかいて座り込んだ。
「ジュン、何故離れるんだ。もっと近くへ来い」
「俺、ここがいい」
 俺がツンとして言うと、ジャハーンはそうか、と言って、ずりずりと俺ににじり寄った。ていうかあんたが近付いたら意味ないんだけど……まあいいか。
 俺と肘がぶつからんばかりに近付いて座ると、ジャハーンは装飾された金の盃を掲げ、恒例の祈りの言葉を言った。
「母なる神、レーィよ。今日もこの恵みに感謝する」
「感謝する」
 俺も言葉の最後を繰り返す。初めてこちらで食事をした時に教えられた。これが、食事をする時の常識的な作法らしい。
 俺は今日はあまり動いていないので腹が減っていなかったけど、とりあえず目の前の皿に手を伸ばした。
 平べったいパンが積んであるうちから一つを取って、スープにつけて食べる。このスープは結構おいしくて好きだと言ったら、時々食卓に出るようになった。ベーコンと、モロヘイヤのような野菜の入ったスープだ。栄養がすごくあるらしい。
 ジャハーンはワインをガブガブ飲みながら、羊の肉をトマトで煮込んだものを食べている。あいつはマッチョなガタイのせいか、とにかくよく飲みよく食べるのだ。
 俺も何度かワインを勧められたけど、かなり渋くて、一口で遠慮させてもらった。日本にいた時もあんまりワインは好きじゃなかったしな。その代わりに、緑色の草が入ったハーブティーのようなお茶を飲むことが多い。初めて飲んだ時は、カップの底に砂糖が山のように沈んでいるのに驚いたけど、今ではもう慣れた。というか、こんなに暑い所で暮らしていると、自然と身体が甘い物を求めるようになるみたいだ。
 時々、ビールを飲んだりもする。俺はビールがあるなんてすげえじゃん、と感心したが、考えてみるとビールっていうのは地球でもかなり昔からあったらしいし、そんなにハイテクなことではないのかもしれない。ここのビールはパンから造っているそうで、あっさりしていてとても飲みやすい。

 食事を済ませ、歯が痒くなるほど甘いデザートを少し食べて胃を休ませた後、俺はジャハーンに抱きかかえられて部屋を出た。俺は別に酔いつぶれたわけじゃない。ただ、こいつがそうしたがるし、抵抗するのも今更面倒なのでされるがままにしているだけだ。俺はそのまま湯殿(と呼ぶのだと教わった)に連れて行かれた。
 二人で風呂に入るのは、二回に一回くらいだ。それでも一日に何度も風呂に入ることもあるから、ほぼ毎日こうして背中を流されている。
 ジャハーンはとにかく俺の肌を褒めまくる。
 俺の肌を、黄金色だとか、大理石のように滑らかだとか、まるで絹のようだとか、歯の浮くようなセリフをにやけた顔で言うので、こっちは恥ずかしくてたまらない。ここの土地の人は、多少の差はあるけれどもみんな大体よく日に焼けた褐色の肌をしていて、俺みたいに生っちろい黄色人種は珍しいらしい。それに、この真っ黒な髪と目も貴重だ、貴重だと言うから滅多にいないみたいだ。確かに、こんな日光の強いところで黒髪でいたりなんかすると、熱を全部吸収して日射病になってしまうかもしれない。
 隙を狙っては変な所をいじくり始めるジャハーンの気を反らす為に、俺はある話題を振ってみた。
「ジャハーン、俺名前、ジュン違う」
「何だと? しかし、お前は初めに自分でジュンと名乗ったではないか」
「うん、俺名前、潤。でもジュン違う。わかる? 潤と、ジュン」
「わからんな。何が言いたい?」
「俺、名前文字ある。‘漢字’ある。それ意味ある。音だけじゃない」
「カンジ? それは何だ?」
「これ、見て」
 俺は、湯に濡れた指を使って、床に漢字を書いた。
「黒石、潤。わかる? クロイシ、黒い石。潤、水たくさん。恵み、そういう意味」
「黒石、潤……」
 ジャハーンはそう呟いた後、またあのうるうるした目をして俺を見た。あれ?これって……。
「潤、何て偉大な名だ。……やはりお前は本当に、神子なんだな。黒石、そう、お前の瞳のことだな。黒曜石のように美しい。そして、潤……水を多く恵む、そういうことだな? お前はこの国に豊穣をもたらす神の遣いなんだな!」
「え? 神違う、俺名前話す、神関係ないよ」
「いや、お前はどうやら自覚がないようだな。潤。常に乾いているこの砂漠の国にとって、水の恵みというのは貴重なものなんだ。年に一度だけ、大河が氾濫する。それは多くの命を奪うと共に、我らに偉大なる恵みをもたらすんだ。よく肥えた湿った土。豊かな水。多くの魚、新しい果物の種子。大河が氾濫したその季節は、貧しい者でも豊かに暮らすことが出来る。そんな恵みを、お前はこの国にもたらすだろう」
 やばい。何かすごい誤解をしているみたいだ。それに、この足に当たるモノ……俺はまた墓穴を掘ったのだろーか。
「潤、よくぞ私の許へ来てくれた……このジャハーン、この命を賭けてお前を愛し、お前に仕えよう」
「だから、神……んむっ」
 だーかーらー、ダメだっつの。俺、あんたのキスに弱いんだよ……ああ、ほんとダメ。そんなにされたら、おまけにそんなとこ触られたら……あああ、のぼせそう……。
 
 こうして、俺の長い夜は更けて行くのだった……はあ。