「いいですか? けして私の側を離れないでください、神子」
「はい、わかりました」
「ちょっとー、僕は?」
「アマシス様はいいんですよ、慣れてるでしょう」
 カリムはアマシス言うところの「けっこう男前」な顔に苦笑を浮かべた。
「それより神子……いえ、この場では用心の為、ジュン様と呼ばせていただきます。無礼をお許しください」
「別に様つけない、かまわないよ」
「そういうわけには参りません。ジュン様、お暑いでしょうがけしてフードをお取りになりませんように。その肌と髪の色は、あまりにも目立ちますので」
「はい、わかりました」
「……それでは、行きましょうか。何をご覧になりたいですか?」
 ええと、別に特にコレっていうのはないんだけど。
「僕、新しい耳飾りが欲しいな」
「アマシス様に聞いたわけではありません」
「なーにその言い方、お前自分の立場忘れてるんじゃないの?」
「いいえ、忘れてなどおりません。私と貴方は今日はジュン様のお供で参ったのですから、ジュン様の意見を尊重するのは当然のことです」
「ふんっ、そんなのわかってるよ。面白くない奴。あの時はかわいかったのに」
「な、なんのことですか。さあ、参りますよ。潤様、こちらへ」
 ちょっとうろたえながら、カリムは俺の体をかばうようにして歩き始めた。なにしろすごい混雑だ。もしはぐれたりなんかしたら、絶対にお互いを見つけられない気がする。
「あっ、野菜売ってる、たくさん」
「野菜なんかどーだっていいじゃない」
「アマシス様! ……この辺りは野菜市です。もう少し先に行くと、家畜や獣肉を売る市もあります。ですが今は収穫期ですから、野菜市の方が賑わっているんですよ」
「あっ、タマネギ。トマト。あれオクラ! 豆たくさん。あれ何豆?」
「ヒヨコ豆といいます。ローストしたり、スープにしたりして食べます」
「たくさん果物。すごい、同じ」
 何だか面白い。知ってる野菜や果物がいっぱいあって、なんとなく嬉しくなる。
「ねえ、カリム、買いたい」
「はい、何をでしょうか?」
「何か食べたい。果物。おいしそう」
「そうですね、それでは葡萄はいかがですか?ほら、あそこで売っています」
「うわあ、すごい。いい匂い」
 その辺りには葡萄の甘い匂いが充満していた。
「巨峰、食べたい」
「キョホー?」
「大きな、紫の葡萄。甘い」
「かしこまりました。ご主人、大粒で甘いのをひとつくれないか」
 カリムが大声で話し掛けると、屋台(とは言わないかな?)のオヤジが無愛想に頷いた。
「おう、俺んとこはどれもうまいがな、そりゃあ一番高いのが一番うまい。大粒だったら、これだな」
「これをもらおう。釣りはいらんぞ」
「そりゃどうも。……なあ、おい、あんたらもしかして……」
 オヤジが何か言いかけるのにさっさと背を向けて、カリムは葡萄を俺に手渡した。
「ありがと、カリム。お金払う、でも俺持ってない」
 そうだ、そういえば俺金ないんだった。
「え? い、いいえ、とんでもございません。ジュン様は金銭のことなどお考えになりませんよう」
「でも……」
「それに、こんなものたいした値はしないのですから」
 うーん。まあ、奢ってくれるっていうんならお言葉に甘えることにしようかな。
 俺はもう一度、カリムに礼を言った。
「ありがと。ごちそうさまカリム」
「……いいえ、あの、とんでもございません」
 カリムは少し戸惑ったように耳を赤くした。それを見て、アマシスがふふんと笑った。
「潤はね、こういう奴なんだよ。お高く止まってないの。かわいらしいでしょ」
 得意げに言うと、俺の手から葡萄を一粒摘み、パクッと皮のまま口に入れる。俺も一粒食べてみた。甘い。それに新鮮って感じ。皮に弾力があって、果汁がじゅわっと口の中に広がる感じがたまんない。
「おいしい」
 俺がにこにこしてそう言うと、カリムが嬉しそうに頷いた。
「お気に召しましたか」
「うん。カリムも食べる?はい」
 と言って一粒渡すと、カリムはそれを一度恭しく目線の高さに掲げてから、口に入れた。
「おいしい?」
「はい。とても瑞々しい」
 そう言ってカリムが笑った。褐色の肌に、白い歯がキラリと光る。うーん、さわやかな野郎だ。
「ねえねえ、潤、装飾品市に行こうよ」
「うん、いいよ」
「ほら、潤のお許しが出たぞ。カリム、とっとと案内しろ」
「……はいはい、わかりましたよ。それでは、参りましょうか。少し歩きますがよろしいですか」
「うん」
「それではけして私の側を離れませんよう。さ、こちらです」
 俺たちはカリムに連れられて、しばらく歩いた。人ごみに何度か足を遮られながらも20分程歩くと、急に煌びやかな出店が並ぶ通りに出た。
「僕、青金石が見たいんだけど」
「さて、質の良いのがありますかどうか」
「それくらい自分で鑑定するさ。そうだ、潤も何か欲しいのある?」
「え? 俺?」
「そう、紫水晶なんてどう? 潤の黄金色の肌によく映えると思うよ。そう、それにさ、孔雀石の化粧品を買おうよ。結婚式の日には絶対に必要だもの。鉛鉱石や、赤土のものも要るね」
「化粧? 嫌だよ。俺男、女違う」
「そりゃそうだけど、でも王妃になるんだしさ。まあそれは後で商人を後宮に召し上げてもいいけど」
「アマシス様、無理強いをなさるものではありませんぞ」
「うるさいなお前は。ねえほら、あれなんていいんじゃない? 容器がすごく奇麗だ」
 アマシスにぐいぐい腕を引っ張られて、俺たちはその辺りの出店という出店を見て回った。ありとあらゆる宝石、化粧品、アクセサリーやベール等がそこには揃っていた。見るからに質悪なものから、一見美しいけれどよく見ると作りの雑さが目立つ物、思わず目を見張る程の繊細な細工がしてあるもの、金、銀、赤、緑、紫、黄……色とりどりの大量の光を見ていると、何だか眩暈を起こしそうだった。
 頭上にはギラギラと輝く太陽。乾燥した空気。耳をつく喧騒、人いきれ……後宮に閉じ込められての運動不足もたたったのだろうか。俺は次第に息が切れてくるのを感じた。
「ジュン様? 顔色がよろしくありませんね。お気分が優れませんか?」
「少し……気持ち悪い」
「ああ、汗がすごい。少し木陰に参りましょう。アマシス様!」
「え? ああ、今行くよ」
 返事をしつつ、アマシスは出店のオヤジと何やら話し込んでいる。
「アマシス様! ……まったくあの方は。すぐそこの棗ヤシの所に居りますからね、よろしいですか!」
「わかったわかった。棗ヤシね。すぐ行くから」
 カリムは俺の肩を抱くようにして、木陰まで連れて行った。店の主人に小銭を握らせて、椅子を借りてくる。
「さあ、お掛けください。吐き気はございますか?」
 俺は、首を横に振った。気持ち悪いけど、戻しそうなほどではない。
「頭痛は?」
 それも大丈夫だ。
「なら、たいしたことはないでしょう。あるいは日射病かと思いましたが……きっと人に酔われたのですね。何か飲むものを持って参りましょうか」
 俺は頷く。何か冷たくて甘いものが飲みたかった。
「少しこの場を離れますが、お一人にして良いものかどうか……」
 困ったように一人ごちるカリムを見上げ、俺は大丈夫だと言って少し笑って見せた。弱々しい笑顔だろうとは自分でも思ったけど、とりあえず彼を安心させるだけの効果はあるだろう。
「そうですか……ならば行って参ります。けしてこの場を離れませんよう。誰かに声をかけられてもついて行ってはなりませんぞ。何かありましたら大声で人をお呼びください。一応、そこの店の主人に声をかけて参りますので」
 子供じゃあるまいし、そんなにいちいち言わなくても大丈夫なのに。
 俺はよっぽど頼りなく見えるらしい。
「はい、わかりました」
 俺が頷くと、カリムはすぐ戻ってまいります、と言って、足早に去っていった。その後ろ姿をぼんやりと見つめて、俺は溜息をついた。
 目を閉じて椅子の背に寄りかかると、市場の喧騒が少し遠くに感じる気がした。生ぬるい風が吹いて、ヤシの葉がさわさわと揺れる。音だけ聞くと涼しげなのにな。
 そういえば、こうやって一人になるのって久しぶりだ。
 いつもピピやアマシスが側に居たし……ジャハーンも、仕事の前と後は俺にべったりだから。
 俺は俄かに心細い気持ちになった。俺はほんとに異邦人なんだな……この知らない世界で、俺は頼れる人物が驚くほど少ない。保護者が側を離れてしまうと、自分が迷子になってしまったような気がした。帰り道のわからない迷子……そのものじゃないか。
 こうやって一人になれても、自分の力であの大河……シシロ河に行くことなんてできないしさ。
 今度から、少し地理を勉強する必要もあるな。
 
 ふと、頬に冷たい感触を感じた。びっくりして目を開けると、そこにはフードを被った男が立っていた。飲み物の入ったコップを持っている。顔は隠れているけど、こいつはカリムじゃない……誰だ?
「体調が悪いのだろう、君。飲むといいよ」
 そんなに大きな声ではないのに、不思議とよく通る声だった。少し発音がおかしいように感じたのは、俺の気のせいだろうか?
 俺は、差し出されたコップに手を出そうとはせずに、じっとそいつを見上げた。そいつはフッと笑うと、膝を折って俺と目線を合わせる高さまで屈んだ。そしてフードの下から優しげな顔立ちを覗かせた。
「知らない人に物をもらってはいけないと教わった? 育ちがいいのかな」
 そいつは明らかに、この土地の顔立ちではなかった。ジャハーン達が褐色の肌をして、みな色素の薄い髪や目をしているのに対して、そいつは日に焼けてはいるものの白人のような肌をしていた。目は薄い紫色。まつ毛が長くて甘ったるい顔立ちだけど、意外にごつい手をしている……肩幅もけっこうあった。
 俺がびっくりしてまじまじと見つめていると、そいつは「おや」と首を傾げた。
「君、珍しい肌の色をしているね。それに、その目の色も……この土地にはない色だ。何処か異国から来たのかい?」
 優しげな口調に、俺は思わずうん、と首を縦に振っていた。
「そうだろうね。まあ、とりあえずこれを飲みなさい。ハイビスカスのお茶だよ。疲れが取れてすっきりする」
 再び差し出されたコップの中身は、赤い色をしていた。俺は何となく怖くて、首を横に振る。毒が入っているとは思わないけれど、それでも知らない男から口に入れる物を受け取るのには抵抗があった。
「そうかい。まあ無理強いはしないけれど。……でも残念だな。君がこれを飲んで眠った隙に、さらって行ってしまおうと思ったのに」
 ぎょっとして立ち上がる俺を楽しそうに見つめて、そいつは「冗談だよ」と言って笑った。そして、手に持っていたコップの中身を自分でゴクゴクと飲んで見せた。
「ほらね、なんともないだろ」
 俺は、カーッと顔を赤く染めた。
 別に本気で疑ってたわけじゃないけど、自分の変な思い込みを指摘されたみたいで、恥ずかしかった。
「ごめんなさい……」
 蚊の鳴くような声で謝ると、そいつはまた白い歯を見せて笑った。
「別に謝るようなことじゃない。面白い子だね、君は」
 にこにこしながら、俺に椅子に座るように促す。
「こんなかわいい子を一人にして、君のご主人様は何をしているのかな」
「ご主人様?」
「おや、違った?小奇麗な格好をしているから何処ぞのお屋敷のお小姓さんかと思ったんだけれど。それじゃあ、ひょっとして君がご主人様なのかな」
「え……ち、違う」
「いや、きっとそうだね。お坊ちゃんって感じがするよ」
 がーん、お坊ちゃんって……それに、かわいい子って、なんだ? 最近みんなしてそう言うもんだから慣れてきてしまったけど、やはりこうして初対面の人に言われるとものすごく馬鹿にされているように感じる。
「おや、どうやらお供の者が来たようだよ。ははは、すごい剣幕だな。きっと君が怪しい輩に誑かされてると思っているんじゃないかな」
 目をやると、カリムが血相を変えて走ってくるのが見えた。あーあ、飲み物がコップからこぼれまくってる。
「貴様! そこで何をしている! ジュン様、早くこちらへ……お怪我はありませんか!?」
 うわぁ、いきなりその言い方はないだろ。俺を心配してるのはわかるけど、こっちが恥ずかしいよ。
「カリム、俺平気。この人いい人。大丈夫」
「何をおっしゃっているのですか! ああ、やはりお一人にするのではなかった! 何かありましたらこのカリム、首が飛んでも済むところではございませんでした!」
 なんつー大袈裟なやつだ。だいいち一人にするって言ったって、ものの10分かそこらの話じゃないか。
「さて、じゃあ僕はもう行くよ。君……ジュンというんだね。また会えるといいな」
 そう言い残して、その男は声をかける間もなく去っていった。あ、そういえば名前とか聞いてなかったな。別にいいんだけど……でも、親切にしてもらっておいて、何だか嫌な思いばかりさせてしまったような気がする。悪いことしたかな。
「あの男、何者だ……」
 ぼそっと呟くカリムを見上げると、ひどく難しい顔をして男が消えた方向を睨んでいた。
「あの身のこなし、かなりの訓練を受けた者としか思えない」
 身のこなし? 訓練? 何のことだ?
「ねえねえ、潤これ見てよ!」
 やけにはしゃいだ声が聞こえてきた。目をやると、アマシスが嬉しそうに走ってくるところだった。
「ほら、これキレイでしょ? 睡蓮の彫刻がしてあるんだ。アスワン王国から取り寄せたものらしいよ」
 そう言って、濃い水色の石のペンダントを見せびらかす。
「ここらへんじゃ取れないもの、こんな色の宝石。僕の目の色に似ているでしょう」
 こうやってはしゃいでると本当に女の子みたいだよな。確かに奇麗な色だとは思うけど、こんなのジャラジャラ飾って楽しいか? 邪魔なだけだと思うんだけどなぁ。
 でもそう言うと怒るのは目に見えているので、そうだね、とだけ言って頷いておいた。
 さあ、そろそろ帰りますよ、というカリムに、ええ〜っと不満げなアマシスの声をぼんやりと聞きながら、俺はさっきの男のことを考えていた。
 また会えるといいな、と言っていた……ただの社交辞令だろうけど、何だか妙に引っかかる。気にしすぎだろうか。カリムがあんまり心配するから、俺にもその気持ちが移ってしまったのかな。
 
 甘い笑顔の中で、その紫色の目だけが笑っていなかったような気がして、俺は何だか得体の知れない不安を感じていた……。