その日、俺は珍しく朝早くに起こされた。
 別にいつも寝坊しているというわけではないけれど、ほぼ毎晩激しい運動を強いられている為、たぶんこの敷地の中では一番起きるのが遅いんじゃないだろうか。というか、他の奴らが起きるの早すぎるんだよな。
 とにかく、その日はまだ西の空が暗いうちからたたき起こされ、数人に寄ってたかって風呂に放り込まれて、着飾らされた。
 話を聞くと、どうやら何処かへ出かけるらしいが、半分眠りの世界に居た俺にはよく理解できなかった。
「潤、仕度はできたか!さあ、行くぞ」
 妙にやる気まんまんなジャハーンに引きずられて、俺達は王宮を後にした。
 輿に揺られながら、俺は聞いてみる。
「ジャハーン、どこ行く? 」
「ん? 聞いていなかったのか潤。これからレーィの神殿に行くのだ」
「神殿???」
 なんだ? 御参りにでも行くのか?
「レーィは水の神だ。今年もシシロ河の氾濫を無事に迎えられるよう、祈願しに行くのだ……もっとも、神子であるお前が居るならば、何の心配もあるまいが」
 だーかーらー。
 俺は神子じゃねんだっつの。
 こんなこと言ってて、何かあったらこいつはどうするつもりだろう。俺が神子じゃないということを知ったら、期待ハズレだとがっかりするだろうか。神子じゃない俺にはもう用はないとばかりに、捨てられるんだろうか……。
 俺は少し暗い気持ちになった。
 ジャハーンがこんなにも俺を大切に扱うのは、ひとえに俺が神子であると信じているからだ。
 でなければ、何の力もないごく普通の男子高生の俺なんかを、ホモでもないこいつが好きになるわけがない。
 その時、俺はハッと我に返った。
 な、なにを考えてるんだ俺は。
 こいつに捨てられる? 願ってもないことじゃんか!
 そうすりゃ無理矢理抱かれることもないし、王宮を出てシシロ河へ行き、元いた世界に帰ることができるかもしれない。こんなくされホモとはおさらばして、まっとうな生活に戻れるんだ!
「さっきから何を考えている? 潤。ひとりで顔をコロコロ変えて」
 ジャハーンが面白そうに俺の顔を覗き込んできて、俺はギクリと顔を引きつらせた。
「べ、別に何でもない。それより、まだ?まだ着かない?」
「せっかちだな潤は。まだ王宮を出たばかりではないか。神殿までは半日かかる。疲れているならば眠っていても良いのだぞ。私が抱いて居てやる」
 そう言って、ジャハーンに抱き寄せられた。あのなー、ただでさえ暑いのに、くっつくともっと暑いんだよっ! でも何故か「放せ」とは言えなくて、俺は茹だるような暑さの中で、ジャハーンのたくましい肩に頭をもたれさせていたのだった。

 神殿についたころには、夕方になっていた。
 神殿につくなり、俺たちは奥の一室に連れられて、水浴びをさせられた。儀式に備えて体を清めろっていうことらしい。さっぱりした俺達が神殿の広間(っていうのかな?)に出て行くと、そこはすっかり準備が整っていた。祭壇には果物やパン、家畜や酒などの供物が捧げられ、お香まで焚かれている。
 うわあああ、なんか、すげえ……。
 俺は呆然としてその光景を眺めた。改めて、そのスケールの大きさに驚かされる。この国では、神っていうのはほんとに力を持っているって信じられてるんだな。なんかそういうのってすごいよな……。
 やがてジャハーンが祈りの言葉を発し、儀式が始まった。
 他に司祭のような姿は見えないから、ジャハーンがその役を務めているのだろう。
 レーィの存在の偉大さを湛え、その恵みに感謝を捧げ、また次の恵みを祈願する。
 それを見て、俺はなんとなく正月の初詣を思い出していた。
 神様に感謝して、今年もよろしく、と願う。基本的なところは、一緒だよな。俺が住んでた日本では、そういう気持ちが廃れて来ちゃったけれど、人間ってみんな同じなんだな……。
 そんなことをぼんやりと考えていると、ジャハーンがくるっとこっちを振り向いて俺に手招きをした。
 ん? 来いってことかな?
 ジャハーンの隣まで行くと、小声で言われた。
「潤、お前もやるのだ。神像に向かって祈りを捧げ、神の石に触れる。それで儀式は終わりだ」
「ちょ、ちょっと待って。祈りって、俺わからない」
「別に難しいことではない。私と同じようにすれば良いのだ」
「……わ、わかった」
 ひえー、緊張するー。
 ドキドキしながら、俺はジャハーンの行動を必死で目で追った。
「母なる神、レーィよ。ここに祈りを捧げる」
 目で頷かれて、俺もその言葉を真似る。
「母なる神、レーィよ。ここに祈りを捧げる」
「シシロの恵みのあらんことを」
「シシロの恵みのあらんことを」
「我は太陽の王、ジャハーン・タ・メリ」
 えっ、名乗るのか? 俺、何て名乗ればいいんだ?
「我は……我は神子、潤……」
 あ、黒石って苗字も言えば良かったかも。今のでよかったのかな?
 チラッとジャハーンの方を窺うと、口元に少し笑みを浮かべて俺を見ていた。今ので、よかったみたいだな。
 ジャハーンは祭壇に近付いて行くと、天井まである大きな神像を仰ぐと、祭壇に置かれた大きな青い石に手を触れた。俺もそこまで歩いて行って、神像を一度見上げてからお辞儀をして、その石に手を触れた。
 その時だった。
 そのトロンとした青の冷たい石が、ほんのりと温かくなったかと思うと、突然俺の頭の中に何かが流れ込んで来た。
 それは、いやにはっきりとした映像だった。
 俺は、船に乗っていた。
 大きな河の上だ……ああ、この場面は知っている。俺がこの世界に来る前に、ずっと見ていた夢だ。
 河の向こうから地響きと共に、巨大な津波が俺を襲う。俺は恐怖に叫び声を上げそうになって、ふいに気がついた。この波は、イメージだ。実際に俺を襲うわけじゃない。実際には、河の水が増水しているだけだ。
 だけど、半端な量の水じゃない。
 辺りを見回すと、視界全てが水に沈んでいた。
 遠くに見えた川岸も、すべてが水の中に消えてしまったらしい。
 これは、尋常じゃない。俺は津波が迫り来るよりもずっと大きな恐怖を感じ、今度こそ耐え切れず悲鳴を上げた。

「潤! 潤! どうしたのだ! しっかりしろ!」
 気がつくと目の前にジャハーンの青褪めた顔があった。
「ジャハーン……な、なに……何が、起きた?」
「わからん。石が熱を発したかと思うと、お前が目を開けたまま倒れたのだ。名を呼んでも反応がないし、かと思ったら急に悲鳴を上げて……潤、一体どうしたというのだ?」
「あ……俺、夢を……」
「夢? どんな夢だ?」
「河が……大きな河が……水、増えて……ジャハーン、俺怖い。あれ怖いよ。普通、違う。みんな水の中。逃げなきゃ、みんな死んでしまう……」
「なに? なんだって? 河とは、シシロ河のことか? シシロ河の氾濫のことを言っているのか、潤」
「わからない……わからないよ……でも、そうかも……とにかく、逃げなきゃ。みんな、高いところに……じゃないと……」
「わかった。潤、落ち着け。……セトス!」
「はっ、ここに」
「シシロ沿いに技術者を派遣せよ。防波堤を築き、倉庫の高さを上げるのだ」
「かしこまりました」
「シシロの氾濫まで二ヶ月を切った、急げ」
「仰せのままに。失礼致します」
 セトスと呼ばれた男が神殿から出て行った。
「潤、奥へ連れて行ってやろう。少し横になると良い」
 ジャハーンに抱きかかえられて、俺は奥の部屋に寝かされた。河に面した、涼しい部屋だった。
「何か飲むものを持ってこさせよう……何だ? 騒がしいな」
 広間の方だろうか。喧騒が遠くに聞こえた。
「失礼致します」
「ムスタファ、何があった?」
「はっ、この土地の預言者と名乗る老婆が、王に目通り願いたいと騒いでおりまして……」
「なに、預言者と」
「ですが、みすぼらしいなりをしておりますし、騙りやも」
「そうか……よし、会おう」
「し、しかし……」
「良い。潤の預言と共に現れたのだ、何か意味があるのかもしれん。だが、ここには呼ぶな。潤の姿を見せてはならぬ……私が行こう」
「神子をおひとりになさるので?」
「ピピを呼べ。といっても、河に面したこの部屋に、誰が来よう筈もないが。水面ははるか下、賊の忍び込む隙はあるまい」
「かしこまりました」
「……潤」
 ジャハーンは、俺の枕もとに膝をつくと、優しい手つきで俺の頭を撫でた。
「少し出てくるが、すぐに戻る。ピピもいるゆえ、心配するな」
「うん……俺大丈夫」
「そうか。疲れたであろう、眠れ。今夜はここに泊まる。シシロ河のことは、もう何も心配するな……いいな」
「うん」
 俺が頷くと、ジャハーンは「今日は素直だな」と言って笑い、部屋を出て行った。ジャハーンと入れ替わるようにして、ピピが部屋にやって来た。
「神子、大事ございませんか? お加減は?」
「大丈夫。心配かけた、ごめんな」
「いいえ、そのような! ……ですが、心配、いたしました……ご無事なようで、本当によかったです」
「うん、ありがと。……アマシスは?」
「アマシス様は、王宮にいらっしゃいます」
「アマシス来なかったんだ……あいつ、怒ってるかも」
「そうですね、留守居役と知って、たいそうお怒りのようでした」
 俺はふふっと笑った。あいつが「なんで僕が留守番なんだよ!」とギャアギャアわめいている姿が目に浮かんだ。
 混乱していた頭が大分落ち着いてきて、俺は寝台から身体を起こした。
「あ……神子」
「大丈夫、ちょっと風にあたるだけ」
 そう言って、テラスに出る。
「お気をつけください、神子。下は河です」
「わかってる」
 下を覗き込むと、ここはかなりの高さがあるらしかった。夜の闇に沈んではいるが、時折はるか下に水面が光を反射するのが見えた。
 その水面をぼんやりと眺めながら、俺はさっきの出来事について考えを巡らせていた。
 あれは、どういう意味なんだろう。
 俺がこの土地に来たのは、事故みたいなもんだと思っていたけれど……やっぱり何か意味があったんだろうか。シシロ河の氾濫について、今年は危険だと知らせる為? それだけの為なら、もう役目は果たしたっていうことなんだろうか。俺は……もう、帰れるんだろうか?
 この、下を流れる河。これもシシロ河の一部なんだろう。だったら、ここに飛び込めば帰れるのか?
 そう考えて、俺は緩く首を振った。
 やめとこう。帰れるかどうかもわかんないのに、飛び込むなんて危険すぎる。高いし、怖いし、流れは早そうだし。
 色んな言い訳を考えながら、柱に手をついたその瞬間。
 鳩尾に鈍い衝撃を受けて、俺は息を飲んだ。
 ……な、なに……誰?
 冷たい汗がどっと吹き出て、頭の芯が痺れてゆく。
「神子! な、何者だ!誰か、誰か! 神子がさらわれる!」
 ピピの悲鳴が聞こえた。俺はもう立っていられなくて、地面に倒れこんだ。だが、硬い床、あるいは水に打たれる衝撃はなかった。代わりに、誰かの腕に抱きとられた。
「君が神子だったとはね、ジュン」
 遠くの方で、聞き覚えのある声がしたような気がしたが……全ては闇の中に沈んでしまった。