俺とジャハーンの結婚は、追加日である5日間国中で祝福された。
 追加日が終わり新年が始まると、まったく暦通りにシシロ河の氾濫が始まった。
 新しい年の夜明けと共に、セプデト(天狼星)という夜空で最も明るい星が姿を現す。その星がシシロ河の氾濫を呼び起こすのだそうだ。
 いつもは緩やかな増水が起こる筈だったが、今年に限っては「神子の預言」の通りにその水量、勢い共に凄まじく、洪水とも言えるほどだった。シシロ河流域付近の土地は例年よりも広く水中に没したが、預言に従って国民達はみな非難していたので、被害者はほとんど出なかったという。
 年明けのその日にセプデト星が空に上がった年は、暦と実際の季節とが一致したということで、とてもめでたい特別な年として祝われるそうだ。

 そういうわけで、俺は今や押しも押されぬ聖なる神子として、その地位を確固たるものとしたわけだ。俺の意思はともかくとして。


 国内のお祝いムードも一段落した増水期の第1月の終わりに、俺は後宮の離れへと赴いた。
 離れにはジャハーンの側仕えである女達が16人程居て、その家来達と共に女だけで暮らしている。そこには王以外の男は滅多なことがない限り足を踏み入れることはできないのだが、俺は一応王妃ということで、自由に行き来していいのだそうだ。
 離れでも一番奥の風通しの良いところに、ムテムイアの部屋はあった。
 俺が来ることをあらかじめ聞いていたのだろう、ムテムイアは爽やかな香を焚き、俺の好きな胡桃と乾燥いちじくのクッキーを用意して歓迎してくれた。
「わざわざお越しいただき、恐縮でございます。呼びつけてくだされば、わたくしの方から伺いましたものを」
 今日のムテムイアはその赤褐色の長い髪をゆったりと結い上げ、こざっぱりとした亜麻の服を着ていた。俺が自分自身を着飾るのを嫌うことを知っているのか、後宮の女性にしては驚くほど質素な格好だった。あくまでも王妃である俺を立てているらしい。
「ううん、俺が話をしたくて来たんだし。それより、突然来て迷惑じゃなかった?」
「迷惑な筈がありましょうか。お出でいただきとても嬉しく思っております」
 ムテムイアはにっこりと微笑んだ。
 普通にしていると少しきつい印象を与えるくらい、きりっとしていて彫りの深い顔立ちが、途端に柔らかい色気をにじませる。
 クッションの上に座った俺に、彼女は手ずからお茶を入れてくれた。
「この度は神子の預言のおかげで、多くの農民達の命が救われました。わたくしがこんなことを言うのはおこがましいようですが、神子、本当にありがとうございました」
「そんな……別に、俺は……」
 俺は俯いた。そのことに関しては、どう考えていいのか自分でもよくわからなかった。まさか本当に、あの夢が予知夢だったなんて……俺の意思とは無関係に、自分が何か大きな力に操られているようで、正直言って怖かった。
「神子の言葉があったからこそ、死者を出さずに済んだのです。それは、事実ですわ……そうではありませんか?」
「うん……そうだよな。それは、ほんとにその通りだと思う」
 俺の不安を感じ取ったのだろう、ムテムイアはなぐさめてくれた。
「それに、そのことがなかったとしても……わたくしはやはり神子に感謝せずには居られません。王は幼少のみぎりより、本当に貴方様のことを慕って居られたのです。貴方様がこの国にいらっしゃらなくては、墓に埋葬されることもなく、ましてやミイラを作られることもなく、罪人のように歴史の闇に葬られたことでしょう。わたくしはそれだけが気の病でしたが、今は本当に安心して、お二人を見守らせていただくことができます」
 穏やかな口調だったけど、俺はどうしてもその言葉の裏を勘ぐらずには居られなかった。本当にそう思っているんだろうか? 一応、ムテムイアと俺ってライバルというか、やっぱり相容れない立場なんじゃないかと思うんだけど。だっておかしくないか? いくら最初から神子が嫁になるもんだと決まってたって、やっぱ後から現れた俺の存在を疎ましく思ったっておかしくないと思うんだけど。普通人間ってそういうもんじゃないのかな? 恋愛ドラマの観すぎだろうか。
 俺が眉をしかめているのをどう感じたのだろうか。
 ムテムイアはふっと苦笑いをした。
「……けれど、神子がご不快な思いをなさるのも無理はありません。貴方様が望みさえすれば、後宮の女達を全て追放することも可能ですが、過ぎたる権力は波乱を呼び、やがては争いの元になってゆくものです」
「お、俺は、そんなこと考えてない!」
「ええ、もちろん、神子の慈悲深いお人柄は聞き及んでおります。これはジャハーン様の乳母として、老婆心ながら忠告させていただいたまで。ですが、出過ぎたことを申しました。お許しください」
「ムテムイア……は、どう思ってるの?」
「何をでしょうか?」
「だから、俺のことを。ムテムイアこそ、嫌なんじゃないのか? こんな、俺みたいな何の取り得もない、しかも男が王妃になって」
「何をおっしゃいます。貴方様が王妃となられたのは神のご意志ですよ」
「神のご意志だから、不満はないわけ? だって、ムテムイアには旦那さんが居たんでしょう? 乳母になるくらいだから、ジャハーンと同じ年の子供も居るんだよね? その人達と別れて、ジャハーンを選んだんでしょう? なのに、俺なんかに……」
「いくら神子とはいえ、おっしゃって良いことと悪いことがございます」
 ぴしゃり、と手を叩かれたかのようだった。ムテムイアはキッと俺を見据えると、きつい口調で話しはじめた。
「確かにわたくしには夫が居り、恐れ多くも王と乳兄弟になる息子が居りました。ですがそれはもう過去のこと。わたくしは王の側仕えとして召し上げていただいたのです。今更以前の生活のことをあれこれおっしゃるのは、筋違いというものではございませんか?」
「あ……ご、ごめんなさい。俺、そんなつもりじゃなかったんだ。本当だよ」
「では、どういうおつもりでそんなことを?」
「何ていうか……ムテムイアは、ジャハーンのこと好きなんだよな? 旦那さんや子供と別れてでも、ジャハーンの側仕えになりたかったんだよな? なのに、俺なんかが王妃になって……あー、俺も自分で何を言いたいのかわかんないよ。ジャハーンがムテムイアみたいに綺麗な人と……って思うだけで嫌だなって感じだし、所詮女の人には敵わないっていうか、そういう気持ちもあるけど、逆に申し訳ないっていうか……。俺ってやな奴だね」
 俺は溜息をついた。
 自分でもよくわからないこの気持ちを、ムテムイアが理解してくれるとは思わなかった。でも彼女は俺のしどろもどろの言葉から何かを感じ取ったようで、少し目元を和らげて、俺の手をポンポンと軽く叩いてくれた。
「不安でいらっしゃるのですね」
「うん……そうかも」
 ムテムイアの手は、指が長くて細くて綺麗だったけど、やっぱり少し年を感じさせた。女というよりは、母という感じだ。
「俺、全部捨てたんだ。元居た世界も、自分の家族も、友達も、今までの生活全部捨てて……今はジャハーンしか居ない。アマシスやピピは友達みたいな感じだけど……でも、やっぱり今はジャハーンが、あいつが居なきゃ俺がここに居る意味がない。だからもしジャハーンの気持ちが離れたらって思うと、怖くてたまんないんだ。みんなはそんなこと有り得ないって言うけど、人の気持ちなんていつ変わるかわからないだろ? だから……」
「たとえジャハーン様の気持ちが離れたとしても、神子がこの国の王妃であるということに変わりはありませんよ」
「でも、王妃だから何なの? 俺、何にも出来ないよ。この国のこと何にも知らないし、政治なんてわからないもん」
「わからないならば、勉強すればよろしいのです」
「勉強して、それですぐ政治なんか出来ないよ。俺、頭良くないしさ」
「本当に頭の悪い人間というのは、自分が無知だということに気付かないものです」
 ムテムイアのちょっと張りを失った優しい手が、俺の手をギュッと握ってくれた。
「貴方様は、自分が無知だということをご存知です。人間は誰でも無知なのですわ。知らないということを自覚して初めて、色々なことが見えてくるのです。大丈夫、今のその気持ちを忘れさえしなければ、神子はきっと良い王妃になられます」
「そうかなあ……」
「知識はいくらでも他の人間から仕入れることが出来ますが、心根だけは自分で磨いていかなければなりません。逆に、心根がしっかりしていれば、大抵のことは何とかなるものなのです。……神子が不安に思う気持ちはわかります。わたくしも、自分で選んだ道とはいえ、家族を捨てて後宮に入った時は心細く思ったものでした。でも今自分にできることは何か、やるべきことは何か。それがわかっていたから、頑張って行こうと思えたのです。ですから神子も、自分のやるべきことを見つけるとよろしいのではないでしょうか」
「俺の……やるべきこと」
 目から鱗が落ちたみたいだった。
 俺、今までそんなこと考えたこともなかった。神子って呼ばれることに抵抗して、でも神子じゃないって思われることが怖くて、ジャハーンの俺に対する愛情にしがみついて、ただやみくもに不安がってた。
 今まで自分で自分にしていた目隠しが、急に取り払われたような気がした。
 そうだ、俺、自分にできることを探したらいいんだ。
「俺、なんか、わかったような気がする」
 視界がぐんと開けたような気持ちだ。
「ありがとう、ムテムイア。俺、自分にできることを探してみる。……あなたと話せて良かった」
 ムテムイアは眩しそうに俺を見つめて、首を横に振った。
「わたくしの方こそ、神子とお話できて幸せです。神子、貴方様はとても素晴らしい方ですわ。真っ直ぐで、純粋で、嘘のないお方です。こんなことを言うと不快に思われるかもしれませんが、やはり神子は来るべきしてこの国にいらしたのだと思います」
「俺、そんないい奴じゃないよ」
「ですが、わたくしはそう思います」
「そうかな……まあ、いいや。ともかく、ムテムイアも、不安だったんだよね。だけど、頑張れたんだよね。それなら俺も頑張れそうな気がする」
「さようでございますか」
 微笑むムテムイアの顔を見ていると、やっぱり複雑な気持ちになった。このひとは、本当にすごい人だと思ったからだ。綺麗で優しいだけじゃなくて、一本芯が通っている、そんな強さがある人だ。アマシスやジャハーンが信頼するのもわかる気がする。俺が逆立ちしたって敵いっこない相手だ。だって、俺も今、こんなにも彼女のことを信頼してしまっている。
「そろそろ夕餉の時間ではございませんか? 一緒にお食事できるならばこれに勝ることはありませんが、王がお怒りになるやもしれませんね」
 ムテムイアがやんわりと帰りを促したので、俺は腰を上げた。
「うん、もう帰るよ。ムテムイア、今日は本当にありがとう。また来てもいい?」
「もちろん、心よりお待ちしております」
 ムテムイアも立ち上がって、俺を見送ろうと廊下まで出てきてくれた。
 そして、別れ際に、悪戯っぽく俺に言ったのだった。
「そういえば、神子、ご存知ですか? 最近後宮で流行っているかつらのことを」
「かつら? ううん、知らないけど」
「あの婚礼の日以来、黒髪のかつらが後宮の中で流行っているのですわ。みな、神子の美しさにあやかりたいのです。いずれ貴族にも広まるやもしれませんね」
「ええ? 俺の髪を真似してるわけ?」
 俺は驚いて目を丸くした。それって何かの冗談?
「今度お出でになった時、ご覧に入れましょう」
 クスクスと堪えきれずに小さく笑いながら、ムテムイアが手を振った。
「さあ、今日はお戻りあそばせ。でも、わたくしと手を握ったことは王には内緒ですよ。王はどうやら神子に対してはとても嫉妬深いようですから」
 このひと、一体どこまで知ってるんだろう。
 俺は何だか色んなことを見透かされているようで恥ずかしかったが、ムテムイアに向かって軽く手を上げると、名残惜しい気持ちで母屋に帰って行ったのだった。