それからというもの、俺はしょっちゅうムテムイアのところに遊びに行くようになった。
 聡明で優しい彼女と話していると、自分の中の色んな気持ちが整理できるような気がしたし、色んな刺激を受けて、負けないぞという気になることができた。俺にとって彼女は頼れる相談相手であり、憧れの存在であり、ライバルであり、そして母親のような存在になりつつあった。
 すっかりムテムイアになついてしまった俺に、ジャハーンやアマシスは不満を隠しきれないようだった。特にアマシスなんか、ムテムイアの色気に当てられたんじゃないか、やっぱり男より女の方がいいのか、とか変な方向に話を向けてぶうぶう文句を言っていた。
 ジャハーンはジャハーンで、俺がムテムイアに打ち解けたことが嬉しいようでもあったし、やっぱりアマシスみたいな文句を言うこともあった。ムテムイアという女性に対して、俺達は互いに嫉妬を覚えあっているみたいだ。そのことが何だかおかしくて、俺はしょっちゅうジャハーンに言われたことを彼女に報告しては、二人で笑った。

 すっかりなついてしまった俺に、ムテムイアは時々一人の人間としての素顔を見せることもあった。中でも、話題が彼女の別れた家族のことになると、その表情は何ともいえず寂しいものになるのだった。何でも、噂に聞いたところによると、夫は若くして病死し、一人息子は親戚のもとに引き取られたのだそうだ。
「やっぱり、会いたいって思う?」
 俺がそう尋ねると、決まって彼女は首を横に振る。
「いいえ」
「でも、ムテムイアの子供だろう?」
「そうですね、確かにわたくしのお腹を痛めた子供です。でも今は、彼はわたくしの息子ではありません。わたくしの息子は王の息子、ウセル様のみ。側仕えに上がるということは、そういうことです」
「でも、そんなの建前だろ?」
「神子……お願いですから、どうかこれ以上はお許しください。王の側仕えであるわたくしには、こう答えることしかできないのです」
 悲しげに眉を細める彼女の顔を見ていると、俺はいつも激しい衝動に駆られるのだった。
 一目でもいい、ムテムイアとその息子を会わせてやりたいと。それは、もう二度と会えないかもしれない俺の家族に対する思いを、彼女とその息子になぞらえて考えているからかもしれなかった。たとえ離れてしまっても、家族は家族だ。会いたくない筈があるだろうか。ムテムイアはきっといい母親だっただろう。そんな母親を、彼女の息子は今も慕っているに違いない。そう思えてならないのだった。

 いつものように夕食前に母屋に帰ると、俺の部屋でアマシスが不貞腐れていた。
「アマシス、ただいま」
 俺が声をかけても、知らんぷりだ。
 俺は、寝台に寝転んでいるアマシスの上に、ドスンと座ってやった。
「痛いっ、何するんだよ潤! ちょっと、重いじゃないかっ」
「あ、ごめんごめん。返事が聞こえないから居ないのかと思った」
 白々しく笑ってやると、アマシスはちょっと照れたように唇を尖らせた。
「チェッ、何だよ。潤には敵わないよな、ご機嫌取りがうまいんだから」
 今のどこがご機嫌取りなんだ?
 どうやら上に乗っかられたことが嬉しくてたまらないらしく、アマシスはニコニコしながら俺にじゃれついてきた。
「今日もムテムイア様のところに行ってたんだろう?」
「うん」
「いつも何話してるわけ? 房事のことなら、僕が何でも教えてあげるのに」
「ば、馬鹿野郎。ムテムイアとそんなこと話すわけないだろ」
「だったら、何話してるんだよ。女に口説かれて鼻伸ばしてるわけ?」
「ばーか、あの人がそんなことするかよ。俺とあの人は、何ていうか親子みたいな感じなんだから」
「親子ぉ?」
「うん、嫁と姑って感じだろ?」
「あー、まあ、そう言われればそうだけどさぁ。何かそうなると、色気ないよね」
 アマシスはつまらなさそうに呟いた。なーんだ、とか言ってるこいつの頭の中がどうなってるのか、俺は一回覗いてみたい。こいつの脳みそにはそういうことしか詰まってないんかい。
「まあいいや。あ、ほら、王がいらっしゃったみたいだよ。潤を呼ぶ声がする」
 アマシスの言う通り、遠くからジャハーンの馬鹿でかい声が聞こえて来た。
 やれやれ、仕方ない。いっちょお迎えに行ってやるか。
 俺は面倒くさいなぁという顔を作って見せながら、いそいそとジャハーンの元へ向かったのだった。

 それから数日後、俺は王妃として初めての公務を果たすべく、神殿建設の現場へ出かけた。シシロ河の増水により多くの農地が水没している今、農民達のほとんどが職にあぶれている状態にある。やがて水が引けばそこは今まで以上に豊かな農地になっているわけだが、それまでの数ヶ月農民達は何もすることがないのだそうだ。
 その余っている労働力を有効に使う為にも、また職にあぶれた農民達を食べさせていく為にも、この時期、大規模な神殿や王の墓が作られる。
 シシロ河流域の村から集まって来た若者達は、神殿の近くにそれぞれ村を作り、役人に管理されて生活をしている。俺はその労働者の村の一つを視察に行ったのだが、活気に満ち溢れているその現場に驚いた。
 給料というものは出ないらしいが、食事は毎日3回きちんと出されるし、水浴びも自由にできる。村には酒なども支給されており、毎晩小さな宴会が開かれて、賑やかなんだそうだ。体調が悪ければ欠勤することもできるし、自由に恋愛をして、結婚することまでできるという。
 俺が思っていたよりも、この国はかなりきちんとした秩序を持っている。
 労働者達はみな生き生きとした表情で、汗を流して働いていた。

 俺は建設指揮官であるポティノスに案内されて、辺りを見渡せる高台に登った。
「この神殿は、この度のシシロ河の大洪水から着想を得て設計しております。今年は土台を完成させるところまでは行かぬでしょうが、計画通りに進めば10年後には完成するでしょう。これが完成図です……この縦に通った隙間は、ぴったり東から西へ抜けるようになっております。太陽が地平に姿を現したとき、セプデト星の光と交わりながらこの道を登ってゆくと、最終的にはこの柱の高さまでシシロ河の水が増水するということを示しているのです」
 ポティノスはここから東北の海の向こうに位置するエラスという大国の出身であり、そこで建築の最新の技術を学んだという。
「エラス帝国での神殿造りも素晴らしいものですが、やはりこの王国には敵いません。技術的にはエラスの方が優れているでしょうが、それを活かせるだけの発想がない。それに比べて、王国の世界観は素晴らしい。建築によって全宇宙を表現しようというのですから、もうこれは私の命を賭けても惜しくない仕事です」
 もう60をいくつか過ぎているだろうに、まるで少年のように目を輝かせながら語るポティノスは、俺からみても格好いい生き方してるよなあと思わせる男だった。
「私ももう年ですから、神殿の完成まで生きていられるか分かりません。しかし、王国で優秀な後継者を見つけることができました。良い機会ですから、ご紹介させていただいてもよろしいでしょうか。かならずや王妃様のお目に敵う男です。……リシク!」
 ポティノスがしわがれた声を張り上げると、高台の下で、図面を見て何やら相談していた男達の一人が顔をあげた。
「ポティノス様、お呼びになりましたか?」
 伸び伸びとした良く通る声で、その男が返事をする。
「呼んだとも。リシク、ここへ上がって来なさい。急いでな」
「はい、只今」
 長い階段を走って登って来たにも関わらず、リシクと呼ばれた青年は少しも息が乱れて居なかった。俺がへえ、と感心してその顔を見上げた瞬間、思わず声を上げてしまった。
「あっ……」
「王妃様? いかがなさいましたか?」
 ポティノスがいぶかしむように俺の顔を見たので、俺は咳払いをしてその場を取り繕った。
「い、いや、何でもない。知っている人によく似ていたものだから、驚いてしまって……」
「さようでしたか。世の中にはよく似た顔の人間が三人は居るといいますから、そのうちの二人なのかもしれませんな」
 ハッハッハと笑うポティノスに合わせて白々しい笑い声を上げながら、俺はその青年をジロジロと眺めた。
 その赤褐色の髪、キリッとしたエキゾチックな顔立ち、まさにムテムイアに生き写しの男だった。
 こんなことってあるだろうか。このリシクという奴は、彼女の息子に違いない!
 そう確信した俺は、ポティノスが少し離れた隙に、リシクにコッソリと話し掛けた。
「リシク、突然変なことを聞くようだけど、あんたのお母さんってムテムイアという人じゃないか?」
「えっ! ……はい、その通りですが、何故王妃様がそのようなことをご存知なので?」
 リシクはかなり驚いたようで、目を丸くして俺を見つめた。
「何故って、だってムテムイアは後宮に居るじゃないか。俺とは近くで暮らしてるもの」
「ああ、それなら、人違いでしょう。私の母は、六年前に病死しましたから」
「えっ……で、でも、そっくりだよ、顔が」
「他人の空似でしょう。たとえ生きていたとしても、母は王の乳母です。後宮に居るわけがありません」
 そう言ってちょっと照れたように笑った。途端に優しい印象になるその顔を、俺が見間違えるわけがない。だってこのところ毎日のように近くで見ているんだから。
 でも、どういうことだろう? リシクは、ムテムイアが側仕えに上がったことを知らないんだろうか?
 俺はリシクを見つめたまま考え込んだ。
 このリシクが、ムテムイアの息子であるということに間違いはないだろう。年もちょうど21くらいに見えるし、顔やちょっとした仕草、そして何より笑顔がそっくりだ。それにジャハーンの乳母といったら一人しかいない。
 なのに、リシクは母親が死んだと思っている……側仕えに上がったことも知らないでいる。
 なんだか釈然としない気持ちだった。
 だけどそんな俺の思考は、リシクの困り果てたような声で一旦途切れた。
「お、王妃様、お願いでございますから、そんなに見ないでください」
 リシクはその整った顔を赤くして、必死に俺から目を反らそうとしていた。
「あ、ごめん」
 素直に謝ると、驚いて俺を見つめ、また恥ずかしそうに目を反らした。
「いえ、そんな、謝っていただくようなことではありませんが……」
 その時、後ろでポティノスが噴き出した。
「ハッハッハ、王妃様の色気に当てられたようですな。独身男にはいささか毒ですぞ。いつもは小憎たらしいほど沈着冷静なリシクが、この体たらくです。いや、いい気味ですな。ハッハッハッハッ」
「い、色気って……」
 俺がカーッと顔を赤くすると、ポティノスが益々大笑いした。
「いやはや、何ともかわいらしい方ですな。婚儀の時はそのお美しさに息を飲んだものですが、近くで見るともっと美しく愛らしい。それに、親しみやすいお人柄と来ている。この国は安泰でしょうな」
 こういう濁声を、この国では蛙の鳴くような声、というらしい。
 その妙なおかしさのある笑い声を聞きながら、俺はこっそりとリシクの横顔を見上げた。
 印象的なその横顔に、ムテムイアの面影を重ねながら、俺は何とも言えない気持ちになるのだった。