俺がリシクと会ったことを告げると、ムテムイアは一瞬明らかに動揺して息を飲み、震える両手で口を覆った。
 やがてゆっくりと息を吐いた後、目を閉じて低く呟いた。
「……そうですか」
 たった一言だけど、その中には色んな思いが含まれているような気がして、俺はムテムイアをじっと見つめた。
「……ムテムイアに、そっくりだったよ。特に笑顔が。……でも、リシクは知らないんだね。ムテムイアが死んだと思ってる……ジャハーンが、それは貴方が望んだことだって言ってたけど……それって本当?」
「……ええ、その通りです」
「どうしてっ?」
 俺は思わず声を荒げかけて、ムテムイアの悲しそうな顔にハッとなって声の調子を落とした。
「……どうして、そんな風にしたの? ムテムイアは、それで辛くないのか?」
「……いいえ、辛くなどあろう筈がありません。わたくしはここで、王の側仕えとして……」
「そんな建前なんか聞きたくないっ!」
 俺はドンッと床を叩いた。
「俺、王妃として聞いてるんじゃないよ。俺は、今までずっと、ムテムイアに本音で話してきた。なのにムテムイアは、それを無視するのか? 立場を崩さないのが、そんなに偉いのか?」
「……神子」
「神子なんて呼ぶなよっ! 俺は、潤だ。俺、俺、家族と離れ離れになって、すげえ寂しい。今の俺にはジャハーンが居て、家族とジャハーンどっちを取るかって聞かれたらジャハーンだって答えられる。だけど、寂しいものは寂しいんだ。もし家族が俺のこと死んだって思ってたら悲しいし、生きてるって、幸せに暮らしてるって知らせたい。もう二度と会えなくても、幸せに暮らしてるんだってわかったら、それだけで救われるじゃんか。リシクだってそうだよ。ムテムイアは、リシクがかわいそうだと思わないのか?」
「ジュン、さま」
「俺がこんなこと言うのは、出過ぎたことだってわかってる。だけど、会おうと思えば会えるのに、手の届く所に居るのに、親子なのに、どうして、どうして……っ」
「ジュン様……どうか、どうか泣かないでください」
 悲しそうにそう言われて初めて、俺は自分が涙を流していることに気がついた。
 驚いて手で頬を擦っていると、ムテムイアの少し冷たい手がそっと涙を拭ってくれた。
「そんなに擦っては、赤くなってしまいます。……そう、そうですね。貴方様もまた、家族と別れて生きる道を選んだ方。だからそんなにわたくしのことを気にかけてくださったのですね。ですが、お願いです、どうかもう泣かないでください」
 そう言うムテムイアこそが、今にも泣きそうな顔をしていた。それでも涙を見せないのは、女ゆえの強さだろうか。
「ジュン様のお気持ちにおすがりして、わたくしも本当の気持ちを申し上げます。ですが、どうぞこのことは内密に……たとえ王にも、おっしゃらないでくださいませ」
「俺、誰にも言わないよ」
「本当ですね……ああ、ジュン様! わたくしとて悲しいのです。あの子は、リシクはこの腹を痛めて産んだ子。愛しくない筈がありましょうか。ですが、あの子の為にも、そしてこの国の為にも、わたくしとあの子の縁は切った方が良いのです」
「な、なんで」
「……このことは、21年間、わたくしの心に秘めて来たことです。ジャハーン王もご存知ないこと。ただ三人だけ、このことを知る方が居られましたが……先王シェプセスカフ様、そして先王妃メリタテン様、我が夫ラモーゼ……皆冥界に旅立たれ、このことを知るのは今やわたくしのみ。このことをジュン様に話すことで、もしやしたら貴方様に累の及ぶことがあるやもしれませんが……それでもよろしいのですか」
「そんなの、全然かまわないよ」
「……そこまでおっしゃっていただけるのでしたら、何もかも打ち明けますわ。リシクは、ラモーゼの息子ではありません……あの子は、わたくしと先王シェプセスカフ様の間に出来た子。ジャハーン様より一月先に産まれた、いわば兄王子なのでございます」
「えっ!」
 俺は想像もしていなかった事実に、ただ目を丸くして呆然とすることしかできなかった。
 まさか、まさかリシクがジャハーンのお兄さんだったなんて!
「で、でも、それなら、どうしてリシクは平民なの? 王子なんだろう?」
「……それには、深い理由があるのでございます。まずは、はじめからお話致しますわ。そもそもわたくしは、メリタテン様にお仕えして居りました。メリタテン様とは乳姉妹として育ち、こう申し上げては失礼ですが、大変仲の良い友達のような関係でした。わたくしはあの方の為なら命すら惜しくはありませんでしたし、あの方もそれはそれはわたくしに良くしてくださいました。メリタテン様と、その兄王子にあたりますシェプセスカフ様のご結婚が決まったその夜、メリタテン様はたいそうお喜びでした。……当時わたくしと同じ12歳であられたあの方は、婚儀が何であるかよくおわかりになっておられず、ただただ無邪気に、兄様とこれからずっと一緒に暮らせるのね、と嬉しそうにおっしゃっていたものです。そんなメリタテン様ですから、実際のご婚儀の後には、たいそう打ちひしがれておしまいになって、どうしてあんなひどいことをするのかわからない、とおっしゃって泣いておられました。あの方にとって、夜の営みは苦痛以外の何物でもなかったようです……。そんなメリタテン様をご不満に思っていらっしゃったのでしょう、シェプセスカフ様は数多くの側仕えをお作りになられました。次第にメリタテン様をお召しになることもなくなり、王妃の部屋へいらっしゃることもごくまれになって行ったのです。メリタテン様はそれでも、ムテムイアが側に居てくれれば寂しくなんかないわ、とありがたいお言葉をくださいましたが……わたくしはあの方がないがしろにされているのが耐え難く、強く憤りを感じておりました」
 そこまで話すと、ムテムイアは一旦言葉を切り、深く溜息をついた。そして、ゆるゆると首を振った。
「わたくしには、シェプセスカフ様のお気持ちがわかりませんでした。あんなにも美しく、気高く、そしてお優しかったメリタテン様に何故冷たくなさるのか……ご結婚なさる前は、あまり会うことはなくとも仲の良いご兄妹でいらっしゃったものを。わたくしはある日シェプセスカフ様と二人になる機会がございましたので、その時思い切ってお伺いしたことがあります。貴方様はメリタテン様をどう思っていらっしゃるのか、この仕打ちはあまりにもひどいのではありませんか、と。すると先王は、苦しげな顔をしておっしゃいました。『あれは余には眩しすぎる。あまりにも清らかすぎて、余が触れれば傷ついてしまう。その証拠に、肌を合わせた途端に余を嫌ってしまった。もう一度あれを抱いてより嫌われるくらいなら、これ以上汚さぬまま遠くから眺めていたいのだ』……その言葉を聞いた時、わたくしは気付いたのですわ。先王は誰よりもメリタテン様のことを大切に思っていらっしゃるのだと。大切に思うがあまり、うまく接することができないのだと。……そのことに気がついた時、シェプセスカフ様がとても痛ましく思えて……おなぐさめするうちに、気がつけばわたくしは先王に抱きしめられて居りました。わたくしと先王は、形は違えどメリタテン様を大切に思う者同士でした。だからこそ、先王の苦しみがわかったのですわ……誰よりも。でも、そのたった一度受けたご寵愛が、まさか命を結ぶ結果になろうとは……懐妊がわかった時、わたくしは絶望致しました。これはメリタテン様への裏切りだと、このことを知ったらあの方はどれほど悲しまれるだろうかと……それが恐ろしくて恐ろしくて、医師に父親の名前を尋ねられた時、ラモーゼの名を出してしまったのです。当時、わたくしはラモーゼから求愛されておりましたが、メリタテン様に生涯をかけてお仕えすると誓っておりましたので、まるで見向きもしませんでした。でもとっさに、自分でも本当に愚かなことをしたと思いますが……事が露見するのを恐れて、彼を共犯に仕立て上げてしまったのです。彼が否定することで全てが明らかになると思っておりましたが、ラモーゼは何故かそれを否定しませんでした。彼は何もかも承知の上で、わたくしと結婚したいと言ってくれたのです。わたくしには……他に、選択肢はありませんでした。本音を言えば、この命尽きるまでメリタテン様のお側にお仕えしたかった。でもそうすれば、遅かれ早かれ赤子の父親を知り、あの方を悲しませることになる。わたくしは、ラモーゼの好意にすがるしか方法はありませんでした。……ラモーゼと結婚して一ヶ月後、メリタテン様がご懐妊なさったと聞いた時、わたくしは複雑な思いでした。お二人の気持ちが通じ合われたのだと、嬉しく思う気持ちもありましたし……あの方がシェプセスカフ様だけのものになってしまう、そんな子供じみた悲しみもありました。……やはりわたくしのお腹の子のことを思いますと、心から祝福できなかった。でもそんなわたくしに、神は罰を与えたのです。わたくしの出産から、同じように一ヶ月後……生まれつきか弱いあの方のお身体は、出産に耐えきれずに……あの時の悲しみ、目の前が真っ暗になるような絶望は今でも夢に見ることがあります。あの方はお亡くなりになる直前、わたくしを枕もとに呼んでこうおっしゃいました。『ムテムイア、あなたの子供のことは、申し訳ないことをしたと思っているわ。あなたはわたくしの唯一の友達……つらい時、楽しい時、いつでもあなたが側に居てくれた。今冥界に旅立たねばならない時、心残りはあなたと、わたくしの息子、ジャハーンのことだけ。どうかわたくしの代わりに母として、あの子を見守ってやってあげて。最後までわがままを言ってごめんなさい。でも、どうか、あの子をお願い……』その小さなお声に、どうして抗えましょうか。わたくしは、いっそのことメリタテン様の後を追って行きたかった。あの方が、寂しがり屋で甘えん坊のあの方が、たった一人で冥界へ旅立たれるなんて、そんなことをさせて良いわけがない。でも、あの方はわたくしに願われたのです……ジャハーン様をお助けしろと。ですから、わたくしはメリタテン様の為、何よりも自分の罪滅ぼしの為にも、ジャハーン様に命賭けてお仕えすると決めました。たとえ王位継承が決まったとしても、いらぬ争いの元になるリシクを、わたくしの側には置いておけません……ですから、ですからわたくしは、あの子と縁を切ったのです」
 ムテムイアの褐色の目から、一粒涙が零れ落ちた。
 俺はとっさにその涙を手で受け止めて、その温かさに泣けてきた。
 ムテムイア、この強く美しい人の心に、そんな悲しみがあったなんて。
「ごめんなさい、ムテムイア。俺、俺……」
 子供のように泣きじゃくる俺の頭を、ムテムイアは優しく撫でてくれた。
「謝られることはありませんよ、何も……貴方様にこうして秘密を話すことができたのは、神のご意志かもしれません。わたくし一人の心に秘めておくには、あまりにも重い事実でしたから……聞いてくださってありがとう、ジュン様。貴方様は不思議なお方。人の心の鎧を剥ぎ取っておしまいになる。きっと貴方様自身が、飾らない素直なお気持ちで居られるからなのでしょうね。貴方様の前では、誰も嘘はつけないでしょう」
「俺、ひどいこと言った。つらいのは、ムテムイアなのに……」
「いいえ、ひどくなどありません。貴方様がわたくしと、リシクを案じてそうおっしゃってくださったのはわかっておりますから……だからどうか、もう泣かないで」
 そう言って、ムテムイアは微笑んだ。
 その笑顔が悲しくて、俺はまた泣いた。
 そこに誰も悪者なんて居ないのに、どうしてこんなにも人生は困難で、苦しみに満ちているんだろう。
 この人が救われる日はやって来るんだろうか。
 それともこの人はもう、救われることを望んでいないのかもしれない。その笑顔には諦めの色が濃くにじんでいて、俺をやるせない気持ちにするのだった。