俺は、王宮に帰るなり周囲の止める声も聞かず、後宮の離れまで赴いた。
 いつもは前日までに訪問の連絡を入れてから行っていたが、今日はそんな暇もなかった。俺は今すぐムテムイアに会いたかった。……でもそれは、大きな間違いだった。
 俺がムテムイアの部屋まで来た時、そこには先客が居たようだった。
 淡い金髪のその女は、後姿しか見えなかったけれど、ムテムイアと何か口論しているようだった。ジャハーンの側仕えの一人だろうか?そう思ったのは一瞬で、すぐにその思考はムテムイアの叱り声によって吹き飛んだ。
「ジュン様! ここへ来てはなりません!」
「え……」
「ジュン様ですって?」
 俺が戸惑って声を出したと、その人が振り返ったのは同時だった。頬を紅潮させて眦を吊り上げたその金髪の人は、びっくりするくらい綺麗な顔をしていた。
「何をしているのですか! 早くお戻りなさい! 誰か、誰かある! 神子をお連れしなさい!」
 ムテムイアが怒声にも似た声をあげる。俺が状況を理解できなくてぼうっとそこに突っ立っているうちに、その女が俺の側に近寄って来た。そして、胸元から短剣のようなものを取り出して……その白い手がそれを構えて……きらめく白刃が……「うわあっ!」俺は悲鳴をあげて、無様にも後ろに倒れこんだ。女が体勢を崩しているうちに逃げようとするけど、恐怖と混乱で足がもつれてうまく動けなかった。
「ミリアム様! おやめください! 神子を殺めてどうなると言うのです!」
「何故止めるの、ムテムイア! このままでは、わたくしが王子もろとも殺される!」
 叫びながら、ミリアムと呼ばれた女が二撃目を送り込んできた。俺はかろうじてそれをかわしたが、それこそかわすのが精一杯で、とても抵抗なんて出来なかった。
「何度言ったらわかるのですか! 神子はそのようなお方ではないと」
「だったら、何故王の訪れがないと言うの? 神子がわたくし達を疎んでいるからではないか!」
 俺は訳がわからないなりに、ミリアムの俺に対する憎悪や殺意を本能的に感じ取って、背筋が凍った。この女は、本気で俺を殺そうとしている。相手は刃物を持っていて、そして俺は素手で、何の武術の心得もない。俺は、俺は死ぬのか?
「落ち着かれませ! ミリアム様! 神子を傷つけてはなりません!」
 ムテムイアがミリアムにしがみついたが、それを振り払って、血走った目でギロリとムテムイアを睨みつけた。
「何故神子をかばう! ムテムイアとて我らと立場は同じではないの!」
「神子は我が王の守護者です、死なせるわけにはいきません!」
「やはり、やはりそうだったのね! ムテムイア、神子と手を組んで我らを貶めるつもりだったのでしょう! おかしいと思っていたのです。神子は近頃頻繁に離れに来ては、貴女と何やら熱心に話しこんでいた……我らを葬る相談でもしていたのでしょう!」
「何を馬鹿なことを……」
「こうなれば、神子もろとも殺してくれるわ!」
 ミリアムが短剣を振りかざした。
 ……それは、まるでスローモーションのようだった。
 ムテムイアが目を見開いたのが、はっきり見て取れた。喉の奥で言葉にならない声を上げたその瞬間、装飾のほどこされた、場違いに美しい短剣が……ムテムイアの、そのふっくらとした乳房のあたりに突き刺さった。まるで吸い込まれるかのように、音もなくそれは突き立てられた。
「ムテムイアッ」
 俺は馬鹿みたいにそこに座り込んだまま、彼女の名を呼んだ。
 ムテムイアは仰け反りながら、ミリアムの首を両手で抱きこんだ。ミリアムはそれに引きずられて、ムテムイアの上に倒れた。
「あ……あ……ム、ムテムイア……」
 身体中が冷たく痺れてきたが、妙に頭は鮮明だった。目の前の光景が目にくっきりと焼け付いて、まるでそれは夢を見ているかのようだった。
「ムテムイア―――――ッ!」
 嘘だ、そんなの、嘘だ!
 俺は今すぐ彼女のもとへ駆け寄りたかった。なのに、まるで身体が凍りついたかのように動かない。俺はそこで震えながら、ただただ目を見開いていた。
 ミリアムは髪を振り乱しながら暴れていたが、ムテムイアがしっかりと腕を組んでいるので、そこから抜け出せないようだった。
 その時、バタバタという足音がして、武装した女達が部屋に駆け込んできた。口々に何か怒鳴りながら、ミリアムをムテムイアから引き剥がし、縄で縛り上げた。
 その女達の一人にそっと肩に触れられて、俺は金縛りが溶けたような気がした。こけつまろびつといった感じで、赤い血の中に沈んだムテムイアの元に駆けつける。
「ム、ムテ、ムテムイア、ムテムイア、し、しっかりして!」
 ムテムイアは閉じていた目をうっすらと開けて、俺を見つめた。
「ジュン様……お、お怪我、は」
「ない、ないよ。俺のことなんかより、ムテムイア、ムテムイアが」
 ムテムイアは、ふっと笑った。不思議な笑いだった。
「わたくし、は、もう、駄目でしょう」
「な、な、なにを、なんで、そん、そんなことないよ! そんな、そんなこと!」
「……いいえ、わかります。でも……これで、これで良いのですわ」
「何言ってるんだよ! 何がいいんだよ! ムテムイアは、死なないよ!」
「……わたくしが、浅はか、だったのです。後宮の、不穏な、状況を……し、知っていた、のに……ジュン、様の、お越しを、拒むことが、できなかっ…た……」
「俺が、俺が来たから、俺が来なければ」
「……いいえ、わかっていて、あなたの、お越しを、楽しみに、していた……あなたは、メリタテン様に、よく似ている。あなたと、居ると……とても温かく、優しい、気持ちに、なれる……ありのままの、わたくしに……」
「ムテムイア、嫌だ、死なないで。お願いだ」
 俺はいやいやをするように首を振った。この腕の中のひとが今命を終えようとしているなんて、信じられなかった。
「これも……神の、ご意志、ですわ……神が、やっと、メリタテン様の……もとへ、行くことを、許して、くださった……ジャハーン様、には、あなたが、おられる……から、わたくしの、役目は、もう終わり……」
「だって、だって、リシクは? リシクがいるじゃないか!」
「あの子は……あの子は、わたくしを、恨んでいる、で…しょう、ね……わたくしは、悪い、母親でした……」
「違う、それは違うよ! リシクは、ムテムイアの子供で良かったって。結婚したい人と出会えたのも、ムテムイアが自分を産んでくれたからだって、そう言ってたよ」
「あの子が……け、結婚、を?」
「そうだよ。優しい人だって。ムテムイアが自分を産んでくれたから、巡り会えた。だから、感謝してるって」
「リシクが……わたくしに……あの子が……」
 ムテムイアの瞳から涙が溢れ出し、なめらかな肌を零れ落ちた。
「わたくしに……感謝を……」
「そうだよ! ムテムイア。だから、死んじゃ駄目だ!」
「……いいえ、もう、何も、思い残すこと、は、ありません……ジュン様、王を、ジャハーン様を……メリタテン様の御子を……どうか、どうか……お守りくださ…い」
「うん、うん、俺、守るよ。何もできないけど、でも、ジャハーンのこと守るから。だから、ムテムイアも一緒に守ってよ」
「……お願い、致します…………メ、メリタテン様、ムテムイアは、今、今お側に……」
「……ムテムイア?」
 褐色の瞳は開かれたまま、光を失った。もう何処も見ていないような、その虚ろな眼差し。
 まさか、まさかそんな。
「ムテムイアッ、嫌、いや、嫌だあッ、嫌だあぁぁ―――」
 俺はその身体をきつく抱きしめた。
 まだこんなに温かいのに、まだこんなに柔らかいのに、胸に耳をあてても何の音もしない。
 今にもその唇から言葉が溢れ出して、俺をなぐさめてくれそうなのに。
 今にもその頬は微笑みかけてくれそうなのに。
 もう動かないなんて。
 その時、俺を背中から強く抱きしめてくれる腕がなければ、俺は自分を失っていたかもしれない。
「……潤!」
 俺をここに繋ぎとめる、そのしなやかでたくましい腕がなければ。
「…………ジャハーン!」