目が覚めた時、見知らぬ天井が目に入って来て、俺は一瞬呆然とした。
 そしてすぐに、ああユクセルの所に連れてこられたんだっけ、と思い溜息をついた。
 寝台の上にユクセルの姿はなかったので、俺は何となくゴロリと寝返りをうった。柔らかいシーツにはまだほんのりと薔薇の香りが残っていて、俺は突然昨夜のことを思い出してしまった。
(うわあああああ……あいつ、一度ならず二度までもなんつうことを!)
 恥ずかしさと自己嫌悪でジタバタしていると、俺が起きたことに気がついたのか、おばさん侍女が一人部屋に入ってきた。一人で暴れている俺を不思議そうに見つめた後、カタコトの王国語で言った。
「神子、ユドノ、したくできてイマス」
「あ……ああ、ありがと。入ります」
 昨夜の名残を一切洗い流してしまいたくて、俺は素直に頷いて湯殿に向かった。
 温めのお湯で身体を軽く洗い流して、湯殿を後にした。何となく真っ直ぐ部屋に戻りたくなくて、俺はブラブラと必要以上に時間をかけて廊下を歩いていた。すると、ゼキが……俺をさらった張本人が、向こうから歩いてくるのが見えた。
 ゼキは俺に気がつくと、目を伏せて足早に通り過ぎようとした。その前に俺はサッと立ちはだかった。
 ゼキは相変わらず無表情だったが、少し動揺したようにも見えた。
「待てよ、ゼキ」
「……神子、どうかお通しください」
 低い声でボソッと呟かれたが、俺はそれを許さなかった。
「あんた、ユクセルのスパイだったんだな」
「……スパイ?」
「つまり……あいつの手先っていうことだよ」
「……そうです」
 言葉少なに答えながらも、ゼキはけして俺の顔を見ようとはしなかった。
「あんた、一体どうしてユクセルの下になんかついているんだ?それ程の腕があるのなら、奴隷なんかに甘んじてないで身を立てる方法なんていくらでもあるだろ」
 そう言うと、ゼキは両手をぐっと握り締めた。必要以上に感情を押し殺した声で、小さく呟く。
「神子には関係のないことです」
「関係ないだって? よく言うよ。俺はあんたにさらわれて、ここに連れてこられたんだ」
「……そのことは、お気の毒だとは思います。ですが私にはどうしようもないことですから」
 そう言い捨てて立ち去ろうとするゼキの後姿に、俺は怒鳴りつけた。
「待てよ! ……あんた、それ程の身軽さがあるんなら、ジャハーン達の所へこっそりと行くこともできるだろ!」
「……だったらどうだと言うのですか。神子を太陽王の元へ帰すことはできません」
「そんなこと頼んでないよ。頼んだって無理なのはいくら俺でもわかってる……ただ、俺はジャハーンの様子が知りたいだけだ」
「太陽王の?」
 ゼキが俺を振り返る。
「あいつが今どうしてるか知りたいんだ。それだけだ」
「……それを知ってどうすると言うのですか」
「どうするって……家族の様子を知りたいって思うのは当然のことだろ。ましてや離ればなれになっちゃったんだから」
 ゼキは横に目を反らした。
「……私にはできません」
 そう言うと、サッと庭に降りてしまった。廊下を含めこの建物はけっこう高く作ってあって、庭までは階段を使わなくては降りられないくらいなのに、ゼキはいかにも簡単そうにそれをこなしてしまった。俺は一瞬躊躇したけど、でも逃がすものかと思ってそれを追おうとした。
 言葉がわからなくて戸惑っていた様子の侍女が、俺がしようとしている行動に驚いてしがみついてきた。
『神子! 何をなさいます! おやめくださいませ!』
「ちょっと、放してくれよ! ……ええいっ」
 制する手を振り切り、俺は目を瞑ると思い切ってそこから飛び降りた。
 失敗したら足を挫くどころか、骨折してしまうんじゃないかと思ったけど、この際手段を選んではいられない。そう覚悟を決めていたけど、いつまでたっても俺の両足に衝撃はやって来なかった。代わりに、俺の身体をしっかりと受け止める腕の力を感じた。
「……なんという無茶を」
 そっと目を開けると、焦ったような困ったような顔をしたゼキが、俺を抱きとめてくれていた。
「あ……ゼキ、ありがとう」
「な……何を呑気にそのような! 怪我でもなさったらどうするのですか」
「そんなことどうでもいいよ。それより、なあゼキ、頼むよ。ジャハーンの様子を見てきてくれよ」
 俺がゼキにしがみついてそう言うと、ゼキは視線を泳がせた。何かに揺れているような、迷いの表情だった。
 その時だった。
「何をしている!」
 鋭い一喝がその場を振るわせた。目をやると、怒りの形相のユクセルがこっちに向かってきているところだった。
「ゼキ、一体誰をその腕に抱いている!? その穢れた腕に!」
 ゼキは一瞬ユクセルを睨みあげたが、すぐに目を伏せて俺を地に下ろし、その場に跪いた。
「お許しください、王子」
「これは一体どういうことだ! もしやジュンを逃がそうとしたのではあるまいな!」
「滅相もございません。ただ、神子が廊下から落ちられたところをお助けしただけのことです」
「廊下から?」
 ユクセルは俺に視線を向けた。
「一体何故」
「……ゼキに、一言文句言ってやろうと思ったんだよ。それでこいつが逃げるから、追いかけようとして……」
 もっともらしい答えを返すと、ユクセルは納得したように頷いた。
「やれやれ。君は、そういうところは本当に気が強いからね……ゼキ、わかった。もういい、下がれ」
 一礼して踵を返したゼキの背を、ユクセルの厳しい声が追った。
「妙な気を起こさぬことだ、ファトマが大切ならば!」
 その日に焼けて引き締まった背が一瞬大きく震えたかと思うと、足早に去っていってしまった。
 今のはどういう意味なんだろうか。
 そういえば、ユクセルは昨日ゼキのことを「刻印つきの奴隷」だと言っていた。普通の奴隷とは違うんだろうか?
 そう思ってユクセルに尋ねたが、首を振るだけで答えてはくれなかった。
「君は知る必要のないことだ。……それよりも、ジュン、怪我は?」
「え?」
「廊下から落ちたんだろう?怪我はしていないかい?」
「あ……だ、大丈夫。ゼキが受け止めてくれたから」
 ユクセルが俺を心配している! こんな優しい言葉をかけている! 一体どうしちゃったんだこいつは?
 よっぽどその思いが顔に出ていたのか、ユクセルは珍しく気まずそうな、少し照れたような表情をした。
「それなら、いい。でも無茶は控えて欲しい。君は、僕の即位に必要不可欠な人なのだから」
 あ、そういうことね。
「うるさいな。もう聞き飽きたよそんなこと。あんたの即位の助けになんて、誰がなるかっ」
 思いっきり憎たらしい声を出して、極めつけに‘イーだ’をやってやると、ユクセルは一瞬驚いて、そしてすぐに笑い出した。
「な、なんだよっ」
「アッハハハハハ……ジュン……ハハハハハ、君は、かわいいね」
「は、はあ? 何言ってんだよ、馬鹿じゃないのかあんた!」
「ハッハッハッハッハッ、馬鹿でけっこうだよ。ククク、いやあまいったな」
 どうやらツボに入ったらしく、腹を抱えて笑うユクセルを憮然と眺めながら、俺はそれとは別に不思議な気持ちを味わっていた。こいつが声出して笑うところなんて、初めて見た気がする。いつも冷たい皮肉なニヤリ笑いだけだったし……なんだ、ユクセルも普通に笑えるんじゃないか。
 チラリと侍女を見やると、彼女は唖然とした表情でユクセルを見つめていた。まるで自分の目が信じられないとでも言うように、何度も両手で目をこすりながら。
 ……どうやら、彼の笑顔は相当珍しいらしい。
 本当に楽しそうなユクセルの笑い声は、それからしばらく廊下に響き渡ったのだった。