その日から、アスワンの王都に向けての旅が始まった。
 アスワン国は王国より幾分涼しいみたいだったが、もし測ったら相当な気温になるだろうことは想像できた。
 丸一日船で移動した後は馬を使って陸地を移動したので、けして厳しい旅ではなかったけど、それでも慣れない土地で、耳慣れない異国の言葉、よく知らない人間達に囲まれての大移動は、俺の心身をひどく疲労させた。
 約10日程かけて王都の宮殿に着いた時には、正直ホッとしてしまったのが事実だった。
 旅の汗と埃を水で流した後、俺はなにやらゴチャゴチャと装飾品をつけられて、ユクセルに連れられてアスワン国王の元へ引き出された。
 王の間へ行く間にも、周囲の好奇心に満ちた無遠慮な視線に容赦なく晒されて、俺は居心地が悪くて仕方なかった。たぶん俺が神子だということを聞いているんだろう。俺を下から上までジロジロと眺めた挙句、何やらひそひそと言い合う声も聞こえて来た。
「国王陛下、ユクセルでございます。只今戻ってまいりました」
 天井から下がった布の前で、ユクセルが跪いて言った。すると、中からしわがれた男の声がそれに応えた。
「入るがよい」
「失礼致します」
 ユクセルは俺に目配せすると、恭しく顔を伏せたまま布を掻き分けて入室した。
 俺は怖々といった感じでそれに続く。すると、部屋の奥の一段高くなっている所に玉座が設けられてあり、そこには何処となくユクセルに似た初老の男が腰掛けていた。
 たぶんこれがアスワン国王なんだろう。白髪混じりの亜麻色の髪に、青い瞳。
 なんとなく悪代官じみたヒヒ爺を想像していた俺は、知性のにじみ出るような威厳に満ちたその姿に、毒気を抜かれて圧倒されてしまった。
 考えてみると他所の王様相手に頭も下げず、ボーッと突っ立っているなんてとんでもなく失礼なんだろうけど、アスワン国王は気にした様子もなく、俺の顔を見ると少し微笑んで見せた。
「ようこそお出でくだされた、聖なる神子よ。余はアスワン王国第十三代国王アルヌワンダ三世と申す。どうぞ我がアスワンにも神子のご加護と恩恵を」
 丁寧に挨拶をされて、俺も慌ててペコリと頭を下げた。
「は、はじめまして。黒石潤です」
 何で俺はこんな挨拶しかできないかな、と思ったが、今更偉ぶって「余は神子であーる」なんて言えないし、仕方ないよな。さて、とりあえず俺に挨拶したところで、次は息子に労わりの言葉でもかけてやるのが流れだろうなと思っていたら、そのアル…ええと、アルヌワンダ三世は、右隣に立っていた男を手招いた。
「神子にご紹介しよう。これはジェスール・トゥトハリヤ。余の長男にあたる」
 え? と戸惑っているうちに、ジェスールとかいう男が笑顔で俺のもとに歩いて来た。ちょっとクドイけど、なかなかの美貌だった。それにしてもつくづく思うんだけど、王族ってのはどうしてこう美形揃いなんだろう?
 ジェスールは俺の手をむんずと掴むと、いきなり手の甲にキスをした。
 げげっ、何すんだこいつ、気持ちわりぃ。
「ジェスールです、神子。どうぞ私に神子の祝福を」
 そう言って、何かを期待するような目で俺を見つめる。
 何だ、何言ってるんだこいつ。
 困り果ててユクセルを見上げると、ユクセルは例の優しげな微笑を浮かべていた。
 それを見て、俺は背筋が寒くなるのを感じた。
 最初の頃だったらその笑顔に騙されていただろうけど、今ならわかる。こいつの優しげな表情に隠された、ゾッとする程冷たく暗い感情が。
 ユクセルは微笑を浮かべたまま、俺に向かって頷いて見せた。
「神子、ジェスール殿下に祝福の口付けを」
「はあっ?」
 俺はすっとんきょうな声を上げて、手を掴んだままのジェスールを見下ろした。相変わらず期待に満ちた瞳で上目使いに俺を見つめている。そんな彼におぞましさを感じて、俺は力いっぱいその手を振り払った。
「ふざけるな! どうして俺がンなことしなきゃいけないんだよっ」
 目を丸くするジェスールに向かって、俺は精一杯凄みを効かせた(つもりの)声で言ってやった。
「俺が祝福するのは、ジャハーンと王国だけだ!」
 そう言い終えると、目の前のジェスールの顔がみるみる青くなった。かと思うと今度は赤くなり、怒りに唇をわなわなと震わせていた。
「たとえ神子とはいえど、あまりにも礼に欠けた振る舞いではありませんか」
「いきなり相手にく、口付けを要求するってことの方が、よっぽど失礼だろっ!」
 負けずに言い返すと、ジェスールの濃い眉がますます吊り上った。今にも怒鳴り散らさんばかりにその口が開かれた瞬間、玉座から楽しげな笑い声が聞こえて来た。
「これはこれは、愛らしい姿かたちとは裏腹に、何と気の強い」
 まるで女の子に対するような言い方には異議ありって感じだったけど、場違いな笑い声にすっかり毒気を抜かれてしまって、俺はアルヌワンダ三世をぼけっと見上げた。
 同じく呆然と国王を見上げていたジェスールは、はっと我に返ったように咳払いすると、わざとらしく笑顔を浮かべた。
「確かに陛下の仰せられる通りですな。戦乱の中にある今日の時代において、それくらいの気の強さがなくては王妃は務まりますまい」
「そうか、ジェスール、お前もそう思うか。しかしこれでは、若き太陽王はさぞや手を焼いているだろうに。それとも、小さなじゃじゃ馬が可愛くて仕方ないか」
 そう言って国王が笑うと、ジェスールをはじめ周囲に控えていた奴らがみんなで笑い出した。
 ちくしょう、なんか俺馬鹿にされてるんじゃないか?
「しかし、神子に人ならぬ神聖な力があるのは確かなこと。我がアスワンがその御身を授かったのは何よりであった。きっと神子はアスワン王国にとって偉大なる守護神となるであろう」
 国王がそう言うと、ジェスールがまた性懲りもなく俺の手を取った。
「陛下、どうぞこのジェスールめに神子の御身をお預けください。かならずや慈しみ、愛と敬いをもってお仕え致します」
 はあっ? と俺が目を丸くしていると、国王が面白そうに身を乗り出した。
「ふむ、神子を娶れば、太陽王の死後王国は我がアスワンの支配下となる。うますぎる話ではあるがな」
「陛下、どうぞお許しをください」
「まあ良かろう。お前も異存はあるまいな? ユクセル」
 その時初めて、国王はユクセルの方を見た。ユクセルはというと、優しげな表情を少し青褪めさせている。いや、青いというよりは、どっちかと言うと顔色をなくしているって感じだった。
「ちょっと待った!」
 流されてたまるかと思い、俺は再びジェスールの手を振り払った。
「さっきから聞いてりゃ、勝手なことばっかり言いやがって! 俺はジャハーンの王妃だ! それ以外の、誰の嫁になるつもりもないっ。大体俺は男だ」
 そう言われて初めて気がついたと言うように、ジェスールは俺の身体を上から下までジロジロと見つめた。
「それに、俺はユクセルに連れてこられたんだから、ユクセルが俺の身柄を預かるってのが筋ってもんだろ?あんたらも、こいつを無視して話進めるなよ」
 言いながら、何かこれじゃあまるでユクセルの側に居たいって言ってるみたいだぞ、と自分にツッコミを入れた。
 そんなんじゃないぞ、断じてそんなんじゃないからな。ただ、こいつのところに居ないとゼキにまた頼みごとをすることもできないし……。
 そんなことを口の中でぶつぶつ言っていると、ジェスールがいきなり俺の肩を痛いくらい掴んで来た。
「神子と思って敬っていれば、何と無礼な! 私の申し出を断るばかりか、ユクセルを選ぶと言うのかっ!」
 その剣幕に俺がビビッていると、すっと後ろから手が伸びてきて、ジェスールの手を外した。振り返るとそれはユクセルの手で、あいつはそのまま俺をその背に庇うように、ずいっと前に出た。
「落ち着かれませ、殿下。こんな幼い容姿でも、聖なる神子に変わりはありますまい。神子のご不興を買うことは、得策とは思われませぬ」
 その声は飽くまでも優しげで、へりくだった調子ではあったが、頑として譲らない意志のようなものが感じられた。俺はユクセルの広い背中から、こっそりとジェスールを覗き見た。
 ジェスールはまさに怒り心頭って感じで、ユクセルを視線で殺そうとでも言わんばかりに睨みつけていた。
「私に意見をするのか、ユクセル! 弟の分際で!」
「けしてそのようなつもりはありませぬ。ただユクセルは殿下、ならびに陛下、そして我が偉大なるアスワン王国の御為を思い申し上げたまででございます。差し出たことを致しました。どうぞお許しくださりませ、殿下」
 そう言って深々と頭を下げられて、ジェスールとしてもそれ以上言い返すことができないようで、言葉に詰まったように黙り込んだ。
 すると、玉座から興冷めしたような声が飛んだ。
「もう良い。確かにユクセルの言うことに一理ある。ここは神子の意志を尊重することにしようではないか。ユクセル、神子をお連れしてお前は自室へ下がると良い」
「仰せのままに。それでは、失礼致します」
 ユクセルの手にそっと背を押されて、俺達は王の間を後にした。
 ……なんか、修羅場って感じだったよなぁ。
 そう思って俺が疲れた溜息を着いていると、ユクセルの部屋と思しき広々とした一室に入るなり、俺は背後から強く抱きしめられたのだった。