ユクセルに抱きしめられたのだ、とわかった俺は、身体を捩ってそこから逃れようとした。
 でも、背後から回された腕にはしっかりと力が込められていて、ちょっとやそっと抵抗したくらいじゃ抜け出せそうになかった。俺は諦めて、余計な身体の力を抜いた。
「なんだよ」
 ぶっきらぼうにそう聞くと、耳元でユクセルが溜息をついた。
「……まさか」
 掠れた声が少し震えているように感じたのは、気のせいだろうか?
「まさか君が、僕の元に残ることを選ぶとはね……」
 その声に含まれた色にドキッとして、俺は必要以上に大声で言った。
「別に、あんたを選んだわけじゃないっ!ただ、俺は……」
「わかってるよ」
 ユクセルはフッと苦笑した。
「いくら僕でも、そこまでうぬぼれてはいないさ。何しろ君は曲がったことが大嫌いな子だからね。馬鹿正直で、呆れるくらい怖いもの知らずで……あそこで陛下が取り成してくださったから良いようなものの、ジェスール殿下に切り殺されていても不思議じゃなかったんだよ」
 そう言われると、今更ながらヒヤリとした恐怖が襲って来た。
 俺もいつもそう思うんだけど、ついカーッと来てデカい態度とっちゃうんだよな。
「……でも、嬉しかったよ」
 そう言って、ユクセルは俺を抱く腕に力を込めた。
「誰もが陛下と、ジェスール殿下を恐れて口を閉ざしていたことを……君は言ってくれた。何だかそれが、自分でも不思議だと思うくらい……嬉しかったんだ」
 その言葉を聞いた時、俺はユクセルが泣いているんじゃないかと思った。後ろから抱きしめられているから顔は見えなかったんだけど、何となく。そしたら何故か俺まで鼻の奥がツンとしてきてしまって、慌てて目を瞬いた。
「な、何言ってるんだよ。いいからもう放せって」
 そう言って体を捩ると、今度はスルリとその腕から逃げ出すことができた。
 何だかひどく照れくさかった。
 たぶん火照っているだろう頬を片手で覆って、俺はチラリとユクセルの方を見た。
 すると、今まで見たことないような顔で笑っている奴と目が合って、焦って視線を反らせた。
 ……なんだよ、あんな顔。らしくない真似すんなよな。なんであんな……泣きそうな顔で笑うんだよ。
 何故かバクバクと早鐘を打つ胸元を、俺は服の上から強く押さえた。すると俺の目に、自分の左手で光る金色の指輪が入ってきた。はじめは指輪なんてし慣れないし抵抗があったけど、今では自分の身体の一部のように馴染んでしまっている、この結婚指輪。
 それに俺の心の一瞬の動揺を責められているようで、俺は思わず首をすくめた。
「そ、それにしても、あんたのオヤジって何なんだ? ジェスールって兄貴の方ばっか猫可愛がりしちゃってさ」
 何となく気まずくて、俺は話題を反らせた。
 ユクセルは途端に例の皮肉な笑みを浮かべて、長椅子に座り込んだ。長い足を憎らしい程優雅に組みながら、フンと鼻を鳴らす。
「さあね……王位継承者である長男以外、興味がないんだろう。馬鹿な子ほど可愛いって言うしね。それに僕は、陛下には嫌われているから」
「え? だって実の親子なんだろ?」
「そうさ。でも陛下は僕のことを極力目に入れないようにしている……君もわかっただろう、ことあるごとに僕を無視するのが。殿下もそうさ。よっぽど僕が気に食わないらしい。まあそれはお互い様というやつだけど」
 どうでも良さそうにそう言った。
 俺はそれを聞きながら、どうしようもない違和感をそこに感じた。
 そしてつい、余計なことを言ってしまう。
「だけど、いくら母親が違うって言っても兄弟なんだし……それに、アルヌワンダ国王は実のオヤジだろ?」
「それがどうだと言うんだい? 血のつながりなんて大した意味はないよ。僕は第二王子で、身分の低い側室の息子で、しかも既に彼女は……母は他界している。王宮で疎まれる理由なんて、それで十分さ」
「俺は王宮の話をしてるんじゃなくて、家族の話をしてるんだよ」
「家族? ハッ」
 ユクセルは馬鹿馬鹿しいとでも言わんばかりに、鼻で笑った。
「一体何を言うかと思ったら。王族に家族愛は必要ない。必要なのは血筋と権力だけだ」
「そんなの嘘だ」
「嘘? 何故嘘を吐く必要がある?」
「だって、だってそれならどうしてあんな顔するんだよ! 本当は、あんただって家族の愛情が欲しいはずだ。そうだろ?」
「……やめてくれないか。家族の愛情だって? そんなもの吐き気がする」
 うんざり、と言ったように言い捨てるユクセルを見下ろして、俺は溜息をついた。
 ……やっぱり、こいつ何か無理してる。
 忌々しげに顰められた眉の下、淡い紫の瞳が動揺の色を浮かべて揺れているのに気付いてしまった。それがすごく辛そうに見えて、俺はそれ以上何も言えなくなった。
 だけど、こいつにはわかって欲しい。
 実の兄貴とか、血の繋がってない母親とか、まがりにも家族と呼べる人たちを殺して自分が王位に就いたって、そんなの空しいだけだ。絶対に、そうだ。ユクセルは絶対にいつか後悔する。
 だけどごちゃごちゃ言うと余計にこいつを頑なにするだけだと思って、俺は一言呟くだけにした。
「……死んだ人間は、生き返らないんだぞ」
 ユクセルは、ハッとしたように顔を上げて俺を見た。
「それをよく考えて行動しろよ」
「……どういう、意味だい?」
「別に、そのまんまだよ」
 そう答えて、俺も側にあった椅子に腰掛けた。
 あーあ、何で俺こいつにこんなこと言ってるんだろ。別にこいつがどうなったって俺の知ったこっちゃないのに。だけど……どうもこいつのこと、嫌いになりきれないんだよな。なんでだろう? なんか放って置けない感じがするっていうか。
 そんなことを考えていると、ふと目の前に影が落ちた。
 何だ? と思って顔を上げると、そこにはユクセルの顔があった。
 ユクセルは無言のまま手を伸ばすと、有無を言わせず俺の唇を奪った。
「んっ……あ……あふっ」
 もちろん俺は抵抗したけど、奴の馬鹿力に敵うわけもなく。
「んむっ……ふっ……んんん」
 思う存分翻弄された後、ユクセルは力の抜けた俺の身体をぎゅっと抱きしめた。そしてすぐに手を離すと、部屋の出口に向かった歩いていった。
「今日の間に陛下からのお呼びがなければ……明日の朝、僕の屋敷に君を連れて行く」
 俺に背を向けたままそう言うと、そのままユクセルは部屋を出て行った。
 俺はあいつが出て行った後、複雑な心境で溜息をついたのだった。