ユクセルの屋敷は、王宮から船で数時間行った所にあった。
 瀟洒な作りの奇麗な屋敷だったけど、はっきり言って辺鄙な所にあるんだなという印象を受けた。これもユクセルの王宮での立場を表しているのかもしれない。
 とにかく、ユクセルは自分の屋敷に着いて安心したのか、終始俺を見張るのをやめた。
 と言っても逃げ出そうとしたって、とても無理な状況であることに変わりはないんだけど。
 俺は自分に与えられた部屋で、何もやることがないので仕方なく柔軟体操をしていた。さらわれてから、正確な日数はわからないけど、少なくとも13〜4日は経っている。その間まったく武術訓練をしていないので、もともとあまり優秀ではない俺の筋肉はかなり鈍っている筈だ。
 いつやって来るか、そもそもそんな時が来るのかどうかもわからないが、ここを逃げ出す時の為に、少しでも身体が動くようにしておきたい。そう思って、俺はしばらくの間腕立て伏せと腹筋、背筋運動に励んだ。
 何セットかこなして、汗を拭いながら休憩している時だった。
「太陽王の王妃が後宮部隊を率いていると言う噂は、本当だったのですね」
 低い抑揚を欠いた声がした。
 ビクッとして振り返ると、思ったとおりそこにはゼキが立っていた。
「ゼキ、ビックリさせんなよ。あんたいつの間にここに来たんだ?」
「つい先ほどです。……王妃ともあろう方が、鍛練ですか?」
「そうだよ。別におかしなことじゃないだろ。俺だって男だからな。今回はまんまとしてやられたけど、この次こんなことがあったら、相手を逆にやっつけてやる」
「……神子が、ですか?」
「おい、なんだよその目は。ちくしょう、確かに俺はもやしっ子だけどなー、そのうち絶対にお前らみたいなムキムキになってやる」
 ゼキは呆気に取られたような顔をしていたが、ふいにその仏頂面が微かに笑った……ような気配がした。気のせいか?
「太陽王は」
 ゼキがまたもとの無表情に戻って、ボソリと言った。
「太陽王は、神子がかどわかされたことを公表してはいないようです」
「え……」
「国民の間に神子を崇拝する者が増えているようですから、民衆の動揺を避ける為でしょう。むろん、そのせいで王自身は行動を制限されるわけですが……王は、かなり苛立っておられるようでした」
「ゼキ……あんた」
「太陽王一行は王宮には戻らず、そのまま農地の視察を続けています。しかし、王は少々体調を崩されたということで、ずっと輿に乗って行動されているようです」
「体調って……ジャ、ジャハーン病気なのか? 具合は? 悪いのか?」
 俺がゼキに掴みかからんばかりの勢いでそう聞くと、彼は静かに首を横に振った。
「側近の様子に悲壮な印象はありませんでした……これは飽くまで私の推測ですが、おそらく輿の中は空か、もしくは王ではない者が乗っているのでしょう」
「それって……」
「太陽王は、おそらく神子を追ってアスワン王国に向かってきている筈です。さすがにそこまでは、追跡できませんでした。私の報告は以上です。……神子、どうぞ手をお放しください」
 ゼキは俺の手を自分の腕から外させると、そのまま背を向けて部屋を出て行こうとした。
「ま、待てよ!」
 俺は慌てて彼の手首を掴んだ。
 ゼキが少し困惑したように振りかえる。
「まだ、何か?」
「その……ありがとう、ゼキ」
 ゼキは灰色の瞳を見開いた。あまり表情が変わらないからわかりにくいけど、どうやら驚いているようだ。でも、驚いてるのはこっちだ。
 そりゃ、ゼキにジャハーンの様子を見てきてくれと頼んだのは俺だけど、まさか本当にやってくれるとは思っていなかったから……もちろん少しも期待していなかったと言ったら嘘になるけど、でもまさか、言わば敵であるこいつが……。
「このこと、ユクセルは知っているのか?」
「まさか……!」
 ゼキは何を言っているんだという目で俺を見た。
 ま、そりゃそうだよな。
「ゼキ、あんたどうして……どうして俺の頼みを聞いてくれたんだ? バレたらヤバイんじゃないのか? ていうか、それよりあんたってゼキの奴隷なんだろう? あいつに服従しているんじゃないのか?」
「服従だなど……確かに私は王子の奴隷です。ですが心は自由ですから」
「それなら……それなら、逃げ出せばいいじゃないか。あんた、何で戻って来たんだよ。自由に外に出られるんだから、そのまま逃げちゃえばいいだろう。好きで奴隷やってるわけじゃないんだろ?」
 ゼキは俺の顔をじっと見て数回瞬きすると、すっと目を反らせた。
「逃げ出すなど、そんなことはたとえ殺されてもできません。いえ、私は死ぬわけにはいかないのです……私は刻印つきですから」
 刻印つき。
 またその言葉が出た。一体それって何なんだ?
「刻印つきって、どういうこと?」
「……神子は、ご存知ないのですか? 神々の国には、奴隷は居ないのですか?」
「神々の国は知らないけど、少なくとも俺の住んでた世界に奴隷制度はないよ。昔はあったみたいだけど」
「そうなのですか……」
「なあ、刻印って何なんだ? そのせいで逃げられないんだろ? それってどうにかならないのか?」
「……刻印つき奴隷とは、そのまま言葉の通りの意味です」
 ゼキはそう言うと、おもむろに自分の腕を俺の目の前につきつけた。がっしりとした二の腕に巻かれた布を解くと、そこには……見るだに痛そうな、無残な焼き印を押された痕があった。
「……これって」
「これは王子の紋章です。刻印つき奴隷は、普通特殊な技能を持った人間が選ばれます。主に私のように、武術、運動能力に秀でた者達です。私達はこの身ひとつで、何処へでも行くことができるし、普通の奴隷と違って、重りのついた足枷をはめられることもありません。でも何よりも重く、けして断ち切ることの出来ない鎖をつけられています。その鎖がある限り、けして主を裏切ることはできません」
 訥々と語るゼキの表情は硬く、そして暗かった。
「その鎖とは……家族です。私の場合は、ただ一人の家族……妹です」
「妹さんは……ユクセルに人質に取られてるってこと?」
「人質……そうですね。妹は私と同じ刻印を腕に受けています。もし私が裏切るようなことがあれば、彼女は下衆のような男どもに慰みものにされ、嬲り殺されます。もし私が任務で命を落としても、同じことです。だから私は……私はけして逃げ出すことはできないし、死ぬこともできないのです」
 言葉もなかった。
 自分の考えの甘さを、まるで横っ面をぶん殴られたみたいにガツンと思い知らされた気がした。
 そうだ。ここは、俺の常識が通じる世界じゃなかったんだ。
 人間は誰しも人権を持っている。そんな言葉が戯言にしかならない、そういう世界なんだ。
「……神子にお聞かせするようなことではありませんでした……お許しください。大丈夫ですか?どうぞ椅子にお掛けください。顔色が真っ青です」
「あんたの妹って……ファトマっていうの?」
「……そうです。それが妹の名です」
 ユクセルの言葉が脳裏に甦る。
――妙な気は起こさぬことだ。ファトマが大切ならば――
 あれは……そういう意味だったのか。
「どうか、今の話は忘れてください。……どうかしていました」
「ゼキ……あんた……そんな事情があるなら、それこそ、どうして俺の言うことなんか聞いたんだよ。もしバレて、ファトマがそんな目に合わされたらどうするつもりだったんだ?」
「……私も……何故神子の頼みを聞く気になったのか……よくわかりません。ただ、神子が家族を大切に思う気持ちが伝わってきて……気がつくと、太陽王の居る方角へ足が動いていたのです」
「あんた、あんた……馬鹿じゃないのか。俺の言うことなんて、無視してよかったのに。俺なんかより、家族の方が大切だろうが!」
 そう怒鳴ったつもりが、情けないことに最後の方は鼻声になってしまった。
「……神子は、やはり不思議な方です。私のような奴隷の身を案ずるばかりか……涙まで流される」
「何が不思議なんだよっ。俺は……俺は……」
 俺は自分の顔を引っ叩いてやりたかった。馬鹿なのは俺だ。何にも知らないで、自分のことばっかり考えて……。
 ゼキは困り果てた様子で、俺の目の前にそっと布を差し出した。たぶんそこらへんにあったやつだろう。真新しく、手触りの良い上質な布……ゼキの妹は……ファトマ、は……一体どんな布でできた服を着ているんだろう。どんなベッドで寝ているんだろう。彼女はどんな暮らしをしてるんだろう?
 そんなことをグルグルと考えていて、俺はこの状況のヤバさに全く気がつかないでいた。
 本来ゼキのことを考えるなら、誰か人に見つからないうちに、さっさと彼をこの部屋から遠ざけてやるべきだったのだ。それを無理矢理引き止めて、その上泣いたりして……そんなことをすれば、彼を危険に晒すだけなのに。
 俺は平和ぼけしていて、何にもこの世界のしくみをわかっちゃいない。

「……何を、しているんだ」
 だから愚かなことに、凍りついたようなユクセルのその声を聞いた時に初めて、今の状況に気がついたのだった。