石の階段を一段一段降りていく。
 暗闇の中、その乾いた音と俺たちの息遣いだけが全てだった。
 その静けさに押しつぶされそうで、俺はリシクの手を軽く引いた。
「なあ、リシク……この階段ってどのくらい下まで続いてるんだ?」
「そんなに長いものではありませんよ」
「今、どのくらい?」
「もうすぐ終わります」
「……そう」
 もうすぐ、と言った彼の言葉通り、ふいに灯りが照らす俺たちの影が伸びた。
 広い所に出たんだ。
「真っ暗だな」
「今、灯火をつけます」
 そう言って、いくつかの灯芯に火を灯していくと、辺りはほの暗い闇の中にその輪郭を現した。
 神々や、人間達の絵が壁の上に描かれている。
 中でも目を引くのは、赤い髪の女性と、煌びやかな王……そして黒髪の女神のような格好をした人物。
 もしかして、これはムテムイアとジャハーン、そして俺だろうか?
「それは死者の生前の暮らしを描いた物です」
 まだ手を繋いでいる為、必然的に俺の隣に立つリシクがそう説明してくれた。
「最も多く描かれている、赤毛の女性がおそらく死者でしょう……王や王妃様の姿もありますね」
「うん」
 自分の姿がこんな所に描かれているなんて、不思議な感じだ。
 この絵は俺が死んだ後でも、ずっと色あせずにこの世界に存在し続けるんだろう……誰の目にも触れないところで。
 そう思って、溜息をついた時だった。
 小さな音と共に灯りが一斉に消え、闇が突然落ちてきた。
「! ……な、なに?」
 一体何が起こったんだ?
 俺は息を飲んで、リシクの手を強く握った。
 今のタイミング……まるで俺の息で炎が消えたみたいだった。
 そんなことある筈がないとわかってはいるけど、この非現実的な空間ではあり得るかもしれないと思ってしまう。人が作り出した空間なのに、人ならぬものが存在するような……そんな錯覚を覚える。
「リシク、灯が……」
 火が消えた後の、独特の臭いが鼻をつく。
 それはけして嫌な臭いではないけれど、俺はざわざわとした不安が胸を覆い尽くすのを感じた。
「なあ、リシク。どうして……」
 話し掛けようとして、途中で俺は言葉を切った。
 何か、違和感を感じる。
「リシク。灯を、灯をつけようよ。暗いのは嫌だ」
 握ったままの手を引いてそう言うと、隣の彼が身動きする気配がして、まもなく灯りがともされた。
 ぼうっとした赤味掛かった炎が、ほんの少しだけ闇を追い払う。
 ごくわずかでも明るくなったのに安心して、俺はリシクを見上げた。
「ビックリしたな。急に消えたから」
 リシクは顔をこちらに向けて、俺をじっと見つめた。
「リシク……?」
 何だか、不思議な感じだ。
 薄暗いせいだろうか。奇妙な感じがする……このどうしようもない違和感は何なんだろう。
 リシクは、こんな顔をしていただろうか?
「帰りたいのですか?」
 ほとんど口を動かさずに、リシクがそう言った。まったくの無表情のままで。
「え?」
「あなたは、帰りたいのですか?」
「帰りたいって……何処に?」
「何処でも」
「え……何? 言ってる意味がよくわからないんだけど」
「わかりませんか?」
「わからないよ」
「……では、もう少し待ちましょう」
 リシクはそう言うと、視線を外して正面を向き、そっと目を閉じた。
 俺はそれを呆然と見つめていた。
 彼は一体どうしたのだろうか。
 特におかしな様子があるわけではない。
 顔色も悪くはないし、口調もしっかりしている。
 なのに、彼が彼でないような気がするのは何故なんだろう。ずっと手を繋いでいたのだから、彼がリシクであることに間違いはない筈なのに……まるで別人のように感じる。
「リシク? ……大丈夫、か?」
「一年を経ました。時は来たが、未だ出ぬ答えを急ぐことはない……」
「時、って?」
「あなたは知っている筈です」
「わからない……一体何を言ってるんだよ?どうしちゃったんだよリシク」
 そう言って手を強く引くと、彼は再び俺に視線を向けた。
 その瞳に真っ直ぐ射抜かれた瞬間、俺はものすごい衝撃を受けた。
 この瞳を、俺は知っている。
 何処かで見たことがある。
 ……いや、それは当然だ。だってこれはリシクの瞳なのだから。
 でも違う。
 矛盾する言葉を胸のうちで呟いた。
 この感覚。このイメージ。
 神秘的で、なのにとてつもなく恐ろしい……身体の芯から震え出すような。
「眠りなさい」
 繋いだ手とは反対の手が伸びてきて、俺の両目を塞いだ。
「彼女の言葉を受け取る必要がある」
「彼女……?」
「さあ、眠りなさい」
 そんなこと言われてもちっとも眠くなんかないし、第一こんな所で眠りたくない。
 そう思う心とは裏腹に、俺の瞼は段々重くなってきて、目に見えぬ手が、暗く甘い眠りの世界へと俺を引きずり込もうとする。俺は抵抗もできず、その強引な眠気にただ身を任せることしかできなかった。
 意識が真の暗闇に落ちる寸前、水面に雫が落ちるような音を聞いた気がした。
 その音楽的な高音は、意識を失った後もいつまでも耳に残っていた。