そこは水の中だった。 暗く、温かく、果てしない無重力の世界。 俺はまるで母親の中に宿る胎児のように、膝を丸めてただそこに漂っていた。 確かなものなど何もない。 ただ混沌としていて、不安定で、でもこうしていれば怖いものなんて何もない。 何を考えることもなく、ただぼんやりとした中にユラユラと揺れていた俺を、静かに呼ぶ声があった。 (……誰?) 穏やかだけど、凛とした響きを持った女性の声。 ああ、この声を俺はよく知っている。 心から尊敬している、大好きなひとの声だ。 なのに何故か彼女の名前が思い出せない。 なつかしくてたまらないのに、思い出そうと思考をめぐらせても、何もかもが形にならずに水の中に溶けてゆく。 (誰……あなたは、誰?) 彼女が微笑んだのが感じられた。 でもその笑顔がどんなだったか、俺は思い出せない。 そのあたたかさや、優しさはイメージとして伝わってくるのに、それはけして実像を結ばない。 まるで何かに力を抑制されているかのようだった。 ―あの夢が怖いのですか?― 彼女が静かに問い掛けてくる。 (あの夢?) ―恐れることはありません。水はあなたの味方なのですから― (味方……?) 彼女は何を言っているのだろうか。 意味がまったくわからないにも関わらず、その言葉は俺の心に沁みこんで行った。 ―変化を恐れてはなりません。未知のものを恐れてはなりません。全てなすがままにまかせるのです― (なすがままに……) ―そうすれば恐れることなど何もなくなるはず― そう……なんだろうか。 何だかよくわからない。 考えようとする力が、まったく湧いてこない……。 ―さあ、お目覚めなさい。そうすれば、この夢をあなたは忘れているでしょう― (え……?) ―異なる魂を持った、運命の申し子よ……愛すべき愚かな……― (ま……待って) あなたは誰なんだ? 俺のよく知る人のようでいて、そうではない……。 訊きたいことがたくさんあったような気がする。 なのにその人の気配はどんどん遠ざかっていく。 意識が、浮上していく。 それと共にこの不思議な感覚は消えうせ、彼女の声は俺の記憶から抜けていった。 頬に柔らかなシーツの感触を感じた。 肌になじんだ、さらりとした手触りのリネン。 品のある香の匂い……そこはいつもの寝台の上だった。 「あれ……」 俺、いつのまに帰ってきたんだろう。 リシクと神殿の玄室に行った筈なのに……そういえば、あの時俺は気が遠くなって……それからどうしたんだろう。リシクは無事なんだろうか? 「潤」 呼ぶ声に振り向くと、すぐ側にジャハーンが立っていた。 公務の時の衣装のままで、何だか難しい顔をしている。 「ジャハーン、仕事は?」 「……気分は悪くないか」 俺の問いかけには答えずに、ジャハーンはやはりむっつりとしたまま硬い声でそう言った。 「うん、別に平気だけど」 「身体の調子は、どこもおかしいところはないか?」 「大丈夫」 ジャハーンは、そうかと頷いたきり、黙ったまま俺の顔をじっと見つめていた。まるで俺の顔色から何かを探ろうとするかのように。 「ジャハーン? ……何だよ?」 「……お前……何故あのような場所へ行ったのだ」 あのような場所? ……ああ、神殿のことか。 多分そうだろうとは思ったけど、やっぱりバレたのか。また危険な真似をするなだの何だの、ギャーギャー言われなきゃいけないのか。 そう考えてウンザリしたけど、心配かけて悪かったという思いもあるので、俺は素直に頭を下げることにした。 「内緒にしててごめんな。だけど、ムテムイアのお墓に行きたくて」 「彼女の墓へ行って、どうしようと言うのだ」 「別に……ただ、お墓参りをしたかっただけだよ」 「ラモーセの息子とか」 「え? ああ……まあ、な。リシクはムテムイアの息子だからな……本人は知らないとは言え」 「お前は……潤、お前は一体何を考えているのだ」 「え?」 見上げたジャハーンの顔は、いつもの彼ではなかった。 厳しい目をしている。 冷たいようでもあり、その奥で何かが燃えているようでもある……そんな目をしていた。 「何って……」 「お前は、玄室でラモーセの息子と二人で倒れていた。手を固くつないだまま、折り重なるように……」 「リシクも? それで、リシクは無事だったのか?」 「無事だ。だが、何も覚えては居なかった。お前のことをひどく心配していた」 「そっか……」 何だか悪いことをしてしまったな。まさかこんなことになるなんて思っていなかったから。 「潤、一体何があった?」 「……わからない。なんか、急に部屋が暗くなったと思ったら……リシクが……」 「奴が? どうしたと言うのだ?」 「リシクが……リシクじゃないような……そんな気がして……。ああ、駄目だ。思い出せないよ」 俺は寝台の上に半身を起こしたまま、頭を抱えた。 暗闇の中の何かを思い出そうとする度、僅かな記憶は水ににじむようにぼやけて行ってしまう。 「潤……お前は、自分のしたことを深く考える必要がある」 鋭い口調でそう言われて、俺は再び顔を上げた。 硬いままの彼の表情には、怒りすら浮かんでいるようだった。 「どういうこと?」 「ラモーセの息子は、本人が知らぬとは言え歴とした先王の息子……お前を娶ることもできる男だ」 「な……何言ってんだよ? 馬鹿野郎、変なこと考えんなよ。大体リシクは結婚してるんだぞ」 「不義は神によって裁かれるべき罪だ……だが人は誰でも過ちを犯す生き物。神子であるお前とて例外ではない」 「はあ?」 なんか、眩暈してきた。 ひょっとして、こいつは本気で俺とリシクのことを疑っているんじゃないだろうな? 「おい、あんたいい加減に……」 「お前はムテムイアに執心していた……その代償を彼女によく似た男に求める気持ちが、ないとは言い切れまい」 「やめろよ!」 俺は声を荒げてジャハーンを睨みつけた。 「潤」 ジャハーンが手を伸ばしてくる。 だけど俺は、忌々しげにその手を振り払った。 「触んな!」 パァン、という音が、やけに派手に部屋に響き渡る。 「……何故、私を拒む」 「そんなの、自分に聞いてみろよ! ……出てけ!」 振り払われた手を握り締めて、ジャハーンはその瞳に怒りを浮かべた。 「お前は私の嫁だ、私を拒むことは許さん!」 振り上げられた腕に目を見張った次の瞬間、俺は頬に強い衝撃を感じたのだった。 |