一瞬、何が起きたのかわからなかった。
 とっさに頬に手をやって、ジンジンする痛みが湧き上がってきてから、ジャハーンに叩かれたのだと知った。
「……な……」
 俺は、男だ。
 だけど、好きな相手からの暴力というものがこんなにショックを受けることだったなんて……頭がカッと熱くなるのとは裏腹に、身体は冷たく痺れていくようだった。
 わななく唇からは、言葉も出ない。
 俺はただ衝撃の中にいて、その時ジャハーンがどんな顔をしていたのかわからなかった。
 だけどふいに強く腕を引かれて見上げた時、ジャハーンは無表情だった。
「潤」
 苛立ちや興奮を隠そうとして、でも隠し切れずにわずかに震えた声で、ジャハーンは俺の名を呼んだ。
 俺が睨み上げると、あいつは小さく舌打ちをして、おもむろに俺を寝台に押し倒した。
「……!」
 一体何をする気だ?
 そう思ったが、ジャハーンの目を見てすぐにその答えを知った。
 その目は、怒りと欲望で暗く光っていた。
「や……やめろよ!」
「うるさい!」
 俺が身を捩ると、ジャハーンは再び俺の頬を叩いた。
「私を拒むことは……絶対に許さん!」
 うめくようにそう言うと、自分の腰から布のベルトを抜き取り、それで俺の両手をまとめて縛り上げた。
「ふ、ざけんなよ、てめえ! 嫌だ! やめろ!」
 悪態をつきながらも、俺の心は震え上がっていた。
 ジャハーンが、怖かった。
 初めて会った時――言葉もわからぬままに身体を重ねた時でさえ、こんな風に恐怖は感じなかった。
 まるで別人のような、血走った目。
 いつも俺を甘くやるせない気持ちにさせる金色の瞳が、俺を通り越して他のものを見ているような気さえ覚える。
 ジャハーンは俺の腰巻を引きちぎるように脱がせ、寝台にいつも置いてある香油でおざなりに後ろを慣らしたかと思うと、すぐに力任せに挿入して来た。
 メリメリと音を立てて肉を割る、すさまじい質量と圧迫感に俺は呻いた。
 だけどその痛みと苦しさにも関わらず、俺の身体は慣れ親しんだジャハーンの雄の象徴を自然に受け入れようとする。
「いや……だ、嫌だっ……いや、いやだぁ……」
 俺は目を固く瞑って、馬鹿みたいにイヤだイヤだとわめき続けていた。
 だけどそんな俺の態度は、余計にジャハーンの怒りを煽ったらしい。
 ジャハーンは自棄になっているかのように、強引に腰を打ち付けてくる。
 俺がこんなに痛みを感じているということは、ジャハーンだってキツ過ぎて痛い筈だ。それなのに激しい勢いで抜き差しを繰り返している。
 こんなのは、セックスじゃない。
 怒りと、悔しさと、痛みと、そして空しさに……頭の中が真っ暗になるような気がした。

 ジャハーンのその拷問とも言える一方的な陵辱は、明け方まで続いた。
 俺が疲れ果てて気を失うように眠りにつくまで、あいつは執拗に俺の身体を貪り続けた。
 激しい嵐にも似た苦痛の中で、俺はたとえお互いに愛し合った恋人同士……いや、夫婦の間でも、強姦というのは成り立つものなのだと知ったのだった。


 朝を迎えて目覚めた時の、そのみじめさと言ったらなかった。
 あんなに苦しく辛い思いをしたというのに、身体はわずかにあちこちがヒリヒリする程度で、たいしたダメージは残っていない。確かに、ジャハーンは多少なりとも香油でほぐしてくれた。だから俺の身体は傷つかずに済んだわけだけど……。
「…………はあ」
 思わず漏らした溜息は、やけに空々しく聞こえた。
 とっくに公務に向かったのだろう、隣にジャハーンの姿はなかった。
 そのことに、今は救われる気がする。
 今ジャハーンの顔を見る勇気はなかった。
 だけど……。
 こうして落ち着いてみると、あいつに対する怒りが沸々と湧いてくる。
 そして同時に、こんなのは馬鹿馬鹿しいと思った。
 ジャハーンの怒りは、全て誤解によるものなんだ。俺がジャハーンのことを本当に拒絶するわけなんてないし、ましてやあいつが変に勘ぐるように、リシクと何かあったわけでもない。
 どうしてジャハーンは俺の気持ちを信じてくれないのだろう。
 いつもあんなに自信に満ち溢れているくせに……どうして……。
 なんだかひどくむなしくて、俺は柔らかい枕に顔を埋めた。
 好きだからこそ、不安なんだ……お互いに。
 そう思う。
 相手を失いたくない。そう思うから、失うこと恐れて色んなことを疑ってしまう。
 だけど、お互いを唯一の相手と認めて一年近く経ったのだから、少しは信頼してくれたっていいのに。
 俺の気持ちはジャハーンに伝わっていないってことなんだろうか。
 『ああ〜……本当、マジでヘコむ……』
 思わずそう呟いて、そういえば久々に日本語しゃべったなぁとなんとなく思った。
 やっぱり、育った環境が違いすぎると、完全には理解し合えないんだろうか?
「そんなこと、ないよな」
 そんなことはないと、信じたかった。
 もう一回、今度は俺もキレたりしないで、冷静に話し合おう。
 ジャハーンは俺のことを愛していると言うし、俺だって……愛している、んだ。互いに唯一の相手と認めているんだから、こんなことで負けたくない。
 ジャハーンは今公務の真っ最中だ。
 でも、夜になれば俺の所に帰ってくる筈だ。
 その時までに、どうやって話をしようか考えておこう。
 そう思って俺は寝返りを打ったのだった。

 だけどその夜、ジャハーンは俺の所には帰ってこなかった。
 一睡もせずに彼を待っていたけど、結局太陽が地平線から姿を現しても、あいつは俺の部屋に来なかった。
 ……どうして?
 情けないけど、涙が出た。
 ジャハーンはまだ怒っているんだろうか? 一時たりとも離れて居たくない、なんて言ってたくせに……俺に会いたくなかったんだろうか? 俺の顔を見たくなかった……?
 嫌な考えばかりが、グルグル頭の中で回っている。
 変な話だけど、俺は本当にあいつのことが好きなんだと実感した。
 帰ってこなかった……避けられた、という事実に、こんなにもショックを受けるなんて。
 あいつを失いたくない。嫌われたくない。あの熱い黄金の瞳に見つめられて、強く抱きしめられて、そして愛していると言って欲しい。強引だけど優しくて、とろとろに溶けてしまうような……あのキスが欲しい。
 もしジャハーンの心が俺から離れたらと思うと、本当に気が狂いそうだった。
 ジャハーン……どうして、どうして帰ってこないんだよ……。
 俺は枕に顔を押し付けて涙を流しながら、必死に嗚咽を堪えようとした。
 俺のことが嫌いになったのか? それとも、何かあったの?
 ……そうだ、何かあったのかもしれない。俺のもとへ来たくても来れないわけが。
 だんだん明るくなっていく部屋の中で、俺は少しずつ冷静さを取り戻した。
 もしかして何か公務のことで問題があったのかもしれない。重要な何かが。それなら俺にも無関係じゃない。
 俺だってこの国の王妃で、政治に関わる義務があるのだから……王の間に行って話を聞いてみよう。
 そう思って起き上がった時だった。
「潤!」
 血相を変えたアマシスが、俺の部屋にすごい勢いで飛び込んできたのだった。