「潤!」
 アマシスは大声で俺の名前を呼ぶと、俺の手を掴み、わなわなと震えだした。
「な、何だよアマシス。どうしたんだよ」
「どうしたもこうしたもないよ!今回ばかりは、王を見損なったよ」
 悔しげに言葉を吐き捨てるアマシスに、俺の胸がザワザワと騒ぎ出す。
「な、何……何があったの?」
「潤、昨夜王はここへ来なかったんだろう?」
 ドキッとした。
 急激に鼓動が高まって、痛いくらいだった。
「なんで……知ってる、の?」
「後宮では皆知ってることだよ。王が……シャジャルの部屋へ行って、そのまま夜を過ごしたことは」
「………………え?」
 シャジャル?
 それは、一体誰?
「シャジャル……って?」
「潤が知らないのも無理はないね。彼女は滅多に表には出てこないから」
「後宮の、ひとなのか?」
「違うよ。シャジャルは神に仕える巫女だよ」
「巫女?」
 ああ、なんだか頭が混乱する。
 アマシスは一体何を言っているんだろう。それは一体どういう意味なんだろう?
「巫女に会って、どうするわけ?」
「さあね……巫女が王の寵愛を受ける例は珍しくはないけど、シャジャルは別に美しいわけでもないし、賢いわけでもない。特に取り得のない女だから。ただ、子供の頃神隠しにあったことがあるっていうだけで珍重されて、巫女に上がったような女だよ」
「……夜を過ごしたって、ジャハーンは……そのシャジャルと……」
「男女が二人きりで夜を過ごすなんてことは、恋人か夫婦でなければ許されないことだよ。神はそれを禁じているのだからね。でも、まあ王のことだから……なんたって王は潤に首っ丈だから」
 そうだ。ジャハーンは、俺のことだけを愛してる筈だ。
 でも……一昨夜のことがあって、それで俺に対する気持ちが冷めてしまったとしたら?
「それにしても、無神経過ぎるよ。側仕えならいざ知らず、何処の馬の骨とも知れない女のもとで夜を過ごすなんて……一体何をしていたんだか知らないけど、王妃である潤を放っておくなんて、許せないよね」
 巫女……。神に近い女性。
 神をあれだけ信じ尊ぶジャハーンが、神に定められたという俺以外に選ぶ相手としたら……それ以上の存在はないんじゃないだろうか?
 ムテムイアや、後宮の側仕え達のように美しい女性ならまだわかる。
 生まれつきのホモじゃないジャハーンが、俺と喧嘩した時にフラフラっとキレイな女性によろめいてしまうのなら……同じ男として理解できなくもない。だけど、アマシスの言うような平凡な女性を選んだとしたら……それは浮気や遊びなんかではなく、本当の相手として認めたということなんじゃないのか?
 俺なんかじゃなくて……心から神を信じて仕える巫女を選んだっていうことなんだろうか?
 ジャハーン……そうなのか?
 俺を、捨てたのか?
 俺はもういらないの?
「……潤? 潤、どうしたの? 顔が真っ青じゃない」
 どうして?ジャハーン……俺のこと、もう好きじゃないのか?
 嫌だ……そんなの……ひどいよ、ひどすぎるよ。
「アマシス……ごめん、少し一人にしてくれるかな」
「え?」
「眠いんだ……すごく、眠いんだよ」
 眠い? そんなわけない。神経が冴え渡っていて痛いくらいだ。
 でも、身体が泥に浸かってるみたいに重くて、瞼は今にも閉じそうだ。
「潤、ひょっとして昨夜寝ていなかったの?」
「う……ん……」
「あ、ちょっと、寝るならちゃんと横になって寝なよ。……潤? もう、寝ちゃったの? ……じゃあ僕は部屋に帰るけど……また後で来るから……おやすみ、潤」
 アマシスの声が遠く聞こえる。
 俺の意識は遥か水底に沈んでいって、全ては水面の向こうに消えていくみたいだった。
 ジャハーン……ジャハーン……なあ、あんたの心はもう俺にはないのか?
 もう元には戻れない?
 ジャハーン、今一体何を考えているの? 俺のことなんてもう考えていないの?

―あなたは、帰りたいのですか?―

 ふいに、脳裏にあの不思議な声が響いた。
 帰りたい? ……そうは思わない。俺はこの国に残る道を選んだのだから……。なつかしいあの場所へは帰らないって決めたのだから。

―あなたは、どうしたいのですか?―

 俺は……俺はただ……もう、何も考えたくないんだ。
 いっそ何処かへ行ってしまいたい。ジャハーンのことも、何もかも……悲しいことやつらいことを考えなくて良いところへ。

 ―あなたは、悲しいのですか?―

 そう……悲しい。つらくて、空しくて、悲しくてたまらない……。心がバラバラになってしまいそうだ。考えれば考えるほど、心が絶望に染まって行くんだ。ジャハーン……約束したのに。永遠に俺だけだって……俺だけを愛すって……俺も約束したのに、どうして信じてくれないんだよ……どうして帰ってこなかったんだよ……どうして、どうしてあんなことを……。

 ―哀れで愚かな運命の子。けれど私は貴方の味方。望みを叶えてあげましょう―

 その声が頭に響いた途端、心がスッと楽になったような気がした。
 疑いも、不安も、悲しみも、苦しみも、空しさも……全て水が蒸発するように消え去っていく。
 まどろみの中で、記憶があやふやになって行く。
 母親のお腹の羊水のような、温かで平和な場所で、ただ丸くなって眠りにつく。
 ここには何の恐れもない。
 ああ、なんて平和なんだろう。

 暗く、温かく、果てしなく深く、そして限りない永遠の揺りかご。
 誕生を待つ胎児のように、俺はその寝床にたゆたうのだった。
 そしてその安らかな眠りから目覚めた時、俺の側に居たのは……見覚えのある、一人の男だった。