河の水が流れ行く音が、やけに大きく耳に聞こえてくる。 しっとりとした土の感触、川辺に生える葦の、みどりの匂い。 夢から覚めたばかりでぼんやりした俺の前に、オレンジ色に暮れた空を背負って、一人の男が立っている。 いつか何処かで見たような光景だった。こういうのをデジャヴというんだろうか。 その肩の向こうに輝く、夕日に照らされた金色の麦畑を見たとき……何故だか苦しいほど胸がせつなくなった。 「どうして、ここに居るの?」 俺はほとんど囁きのような小声で呟いた。 ごく単純な疑問だった。 彼はどうしてここに居るんだろう? ……俺はどうしてここに居るんだろう? 「……夢を見たからです」 相変わらず、低い静かな声で彼はそう答えた。 その表情に驚きの色は見えなかった。 「夢?」 「水辺で神子が眠っている夢です。眠る神子をそっと起こす、ただそれだけの夢を何度も見ました。だから……それが私の役目なのだと知ったのです」 「役目って……どうして」 「神子は何か事情があってこの地まで来られたのでしょう……ならばそれをお助けするのが、かつて神子に救っていただいた私の役目です」 「……ゼキ」 彼の名を呼んだ時、俺は情けないことに目頭が熱くなるのを感じた。 不思議だった。 かつて、俺をジャハーンのもとから攫った男で……俺がひどい目に合う原因になった男でもあるし、俺の浅はかな行動が彼をも苦しめた……それに彼は出会ってすぐ旅に出てしまったから、実際にはわずかな時間しか共にしていない。 なのに今、こうして目の前に居るのがゼキだという……その事実が俺をひどく安心させるのだった。 「俺……」 「はい」 「俺……俺は……どうしてここに居るんだろう?さっきまで王宮に居たはずなのに……」 ゼキはほんの少し困ったような顔をして、首を傾げた。 「神子がそう望まれたからではないのですか?」 「……俺が?」 「そうでなければ、このような不思議はありえないのでは」 そう、なんだろうか。 ……そうなのかもしれない。 俺は確かに、遠くに行ってしまいたいと思った。 ジャハーンから遠く離れてしまいたいと。 そう願ったら、本当にそうなってしまった……これは喜ぶべきことなのか? 「ここは、何処?」 「マグディ・ハン王国の東の外れです」 聞いたことのある国名だった。 「王国からは、どれくらい離れてるんだ?」 「船と馬を使って、三ヶ月はかかります」 「……そんなに」 根っからの現代人である俺にとっては、気の遠くなるような距離だった。 俺はくらくらする頭を振って溜息をつくと、あらためて辺りを見回してみた。 赤々と燃えながら沈んでいく太陽。 一面の麦畑の上に、夜がやって来ようとしている。 王国内の何処にでもあるような景色なのに……実際は、王国は遥か遠くなんだ。 「この河は?」 答えがわかりきっているのに、俺はそう尋ねた。 「シシロ大河です」 「……そうなんだ」 やっぱり、そうか。 それを確認して、安心したような、がっかりしたような、複雑な気持ちだった。 遠く離れたとは言え、やっぱり俺はシシロ大河からは逃れられないのか。 でも、この河はジャハーンのもとへと繋がっているんだ……今更未練がましくそんなことを思いもした。 肩を落として途方に暮れる俺を、段々空が暗くなってゆく中、ゼキは無言で見守っていた。 「俺は、どうしたら……いいんだろう」 小さな声で情けなくそう呟くと、ゼキは俺に向かって手を差し出した。 「とりあえず、私の宿においでください。粗末で、神子をお迎えするには罰があたりそうなところですが、少なくとも害はありません」 「宿って?」 「あの夢を見てから、家を一軒借りたのです。家とも言えないような小さな小屋ですが、身の回りの世話をする召使いも一人雇ってあります」 「え……ゼキ、あんたもしかして俺の為に?」 「いいえ、私の為です。神子を性質の悪い盛り場などにお連れしては、私の気が休まりませんから。……さあ、夜が更ける前に行きましょう」 ごく控えめに差し出された手は、日に焼けていかにも皮膚が厚そうで、少し荒れていた。旅をする男の手というのは、こういうものなんだろうか。 その手をそっと握り締めると、軽く握り返された。 その指に込められた優しい力に、何故だか胸が締め付けられて泣きたくなった。 以前、ゼキの手をこうして取って歩いた時……俺はユクセルから逃げて、ジャハーンの元へ向かっていた。 あの頃も本当につらかったけれど、だけどジャハーンに対する愛情が俺の全てを支配していた。ジャハーンの愛情を欠片も疑わなかった。ジャハーンのあの光り輝くような存在感と、与えられる激しく優しい愛情があったから、あんな状況でも希望を失わなかった。 なのに今は……。 「……」 とぼとぼと歩きながら、辺りが薄暗いのをいいことに、俺はこっそりと涙をこぼした。 すぐ隣を歩くゼキに、俺の微かな嗚咽が届かないように祈りながら……俺は静かに泣いたのだった。 |