そこはとても小さな家だった。
 日本の俺の家よりも狭いんじゃないだろうか……もちろん天井の低い平屋だ。
 だけどひんやりとした石造りで、日干しレンガで造る王国の家とは違った快適さがあった。
 掃除がよく行き届いていて、空気が済んでいるような気さえした。
「奇麗にしてるじゃん」
 俺が泣いた後の掠れた声でそう呟くと、ゼキは軽く首を傾げた。
「私が手入れをしているわけではありませんが……王宮には比ぶべくもありませんが、けして不潔なところではありません。さあ、どうぞお掛けください」
 ゼキに促されて、俺は一人掛けの椅子に腰を降ろした。
「召使いは通いですので今は居りませんが、彼女が作っておいてくれた食事があります。何か召し上がりますか?」
「……腹は、空いてないんだけど」
 考えてみたら、昨日の夜から何も食べていない。だけど食欲は全く湧かなかった。
 ゼキはそうですか、と微かに首を傾げると、背を向けて食事の支度を始めた。
「私は夕餉がまだですので、食べることにします。申し訳ありませんが、神子もおつきあいくださいませんか。一人で食べる食事は味気ないもので」
 そう言って、俺の前にスープ皿と木のスプーンを置いた。
「……いいよ」
 俺が頷くと、ゼキは何処か安心したように表情を和らげた。
 といっても、パッと見ただけでは、彼の表情の違いはとてもわかりにくい。目尻がやや切れ上がった涼しげな顔をしているせいか、どちらかというといつも冷たい感じに見える。
 俺がささいな彼の感情の変化さえ感じ取れるのは、まるで縋り付くかのようにゼキの顔をじっと見つめているからだ。彼から見ると、俺はまるで捨てられた動物か、途方に暮れた迷子のように情けない顔をしているに違いない。
 俺は俄かに自分が恥ずかしくなって、頬を掌で擦った。
 すると、涙が乾いた後の突っ張った皮膚が、少しほぐれるような気がした。
「いただきます」
 手を合わせて、目の前で湯気を立てているスープにスプーンを突っ込んだ。
 いい匂いがする。俺の好きなベーコンとモロヘイヤのスープだった。
 そのおいしそうな湯気に誘われるように、俺はスプーンを口に運んだ。
 途端に、ベーコンの旨みと野菜の瑞々しさが口いっぱいに広がる。その温かさが体中に沁みこんで行くようだった。
 食欲なんてまるでなかった筈なのに、気がつくと俺はすっかりそれを平らげていた。
 そうすると、人間っていうのは単純にできているもので、不思議とさっきまでの絶望的な気持ちが少し和らぎ、今にも俺を押しつぶそうだった不安がすっかり消え去っていた。
 顔を上げると、ゼキは相変わらず無愛想な顔をしていた。
 だけどその瞳は優しく、何処か嬉しそうにも見える。
「召し上がれないかと思っていましたが……多少なりとも食欲があるというのは、良いことです」
「そうかな」
「はい」
 そう頷くゼキの顔を見つめているうちに、何故かまた目頭が熱くなってきて、俺は慌てて俯いた。
 ふいに、ジャハーンと初めて食事をした時のことを思い出してしまった。
 あの時は、とにかく言葉もわからないし、何がなんだかわからないまま無理矢理あいつに抱かれて……それこそ不安だし怖かったし、頭の中がひどく混乱していた。
 でも一緒に座って食事をしたら、何だか安心したんだった。
 見たことのない料理だけど、普通に俺も食べられる味だし、現にあいつと俺は同じものを食べている。言葉も通じないしまったく文化も違うけれど、同じ人間なんだ。そう思って、少し肩の力が抜けた気がした。
 それがつい昨日のことのようで……でも遥か昔のことのようにも感じる。
 ああ、俺って自分でもヘタレだとは思ってたけど……こんなに女々しい男だとは思わなかった。
 さっきからこんなことばっかり考えては、メソメソしている。情けないし、みじめったらしい。だけど……。
 ……もう二度と、ああして二人で飯を食うってことはないのかな……。
「今日はもうお疲れでしょう。すぐにお休みになられますか? それとも身体を清めますか?」
 俺の涙に気付かない振りをしてくれて、ゼキは食器を片付けながらそう訊いてきた。
「……うん、もう寝るよ」
「寝台の仕度はしてあります。一番奥の部屋です。ご自分で行けますね?」
「うん」
「すぐに虫除けの香を持って参りますから、どうぞお休みください」
「うん。あの……ゼキ」
「はい、何か?」
 ゼキは俺に背を向けたまま返事をした。
 それが、泣き顔を見られたくない俺に対する心遣いだということは、痛いほどよくわかった。
「色々ありがとう、あと……迷惑かけてごめんな」
 ゼキは背を向けたまま一瞬手の動きを止めた。
「……先ほども申しましたが、私は神子にこの命と魂を救っていただきました。今、神子をお助けするのは負担などではありません。私の役目であり、義務であり、そして喜びと思っています。そのことだけは思い違いなされませんよう」
 俺はハッとして、そのたくましく引き締まった背中を見つめた。
「お休みなさいませ、神子」
 そう言うゼキに、ただ嗚咽を堪えて小声でオヤスミを返すことしかできなかったのだった。