目を覚ましたとき、部屋の中はまだ暗かった。
 壁越しに、うるさいくらいの虫の声が聞こえてくる。
 夢は見なかった。
 見たのかもしれないけれど、何ひとつ頭の中に残ってはいなかった。
 肌に感じる空気は冷たくて、寒いくらいだった。
 もしかしたら夜明け前なのかもしれない。
 夜明け前が一番暗く、そして寒いのだと誰かが言っていたような気がするし……実際そうだと思うから。

 俺は泣いたせいで重い瞼を擦り、妙にだるい身体を起こして部屋を出た。
 ゼキは何処で眠っているのだろうか。
 そんなことをちらりと考えて、手探りで短い廊下を歩き、手に触れた扉の鍵を外して外に出た。
 すると、そこには大きな河があった。
 広々とした麦畑の向こうに、寝そべるような形で風景を横切っている。
 そしてそのまた遥か向こうの地平線が、微かに赤く染まっていた。
「……日の出だ」
 でもまだ空は暗い。無数の星がチカチカ瞬いている。
 その暗い夜空の一箇所だけが、小さく燃えている。
 見つめているうちに、その光は段々大きく広くなって、東の空を染めていった。
 紺色の雲が、オレンジ掛かった淡い金色に染まっていく。とても奇麗な色だけど、俺はその色の名前を知らない……何故かその色の名前を知りたいと思った。
 やがてその光に導かれるみたいに、太陽がゆっくりと姿を覗かせた。
 眩しかった。
 目を細めなければ見つめていられないくらいに。
 そして、美しかった。
 何度も見た筈の朝焼けなのに、やっぱりそれは息を飲む程奇麗で、震えるほど感動して、圧倒された。
 王国の人は、太陽を神だと思っている。
 太陽は船に乗って天空を旅して、夕暮れと共に地平線の向こうへ去り、夜の間地下世界を巡り、そして朝になるとまた地上に戻ってくると……そう信じている。
 だけどあんな眩しいものを乗せられる船なんてあるんだろうか?
 あの強烈な光と熱の前では、全てが焼け焦げて、そして溶けてしまうような気がする。そんなことを言うと、またピピに怒られてしまうだろうか。
 太陽がゆっくりと、だけどものすごい速さで昇ってくる。
 空を光で染め上げて、夜空を消していく。
 そして、大気が熱を帯びていく。
 ついさっきまであんなに肌寒かったのに、俺の肌はもう既に日光の熱さでジリジリと焼かれている。
 
 ジャハーン。

 彼のことを想った。
 あいつに会いたかった。
 俺の言うことを信じず、疑い、そして俺を殴り、暴力で以って身体を犯し……そして他の女の所に行ったまま帰ってこなかった男。
 だけど俺のことを愛し、強く強く愛し、そして俺が愛した男。俺が、愛しているひと……。
 このまま二度と会わなければ、つらい悲しいことも、怒りも、そして愛しく想う気持ちも、全てが少しずつ薄れて日常に埋もれていくのだろう。あんなに恋しかった日本を諦められたように。
 だけど彼にもう一度会いたかった。
 会ってどうするのか、それはわからない。
 だけどどんなみじめな思いをしてもいい。後悔してもいい。もう一度彼の顔が見たかった。声が聞きたかった。その温もりに触れたかった。

 不思議だ。
 昨日の夕暮れの時は、あんなにも絶望していたのに。
 まだ半日も経っていないのに、こんな気持ちを覚えるなんて。
 何故か涙が溢れて来た。
 昨日あんなに泣いたっていうのに……ほんと、泣きすぎだよな俺って。
 だけど今は自分に泣くことを許そう。
 これはけして後ろ向きな涙じゃないから。
 男は誰も見ていないとこでなら、泣いてもいいんだ。
 昨日ゼキの前で散々泣いたことを棚に上げて、そんなこと考えた。
 そうこうするうちに、太陽はすっかり昇り、朝になっていた。
 妙なもので、泣こうと思うと何故か涙は引っ込んでしまい、俺の頬は太陽に照らされて乾いてしまった。
 俺は少し笑った。
 こんなに遠くまで一瞬で来たけれど、王国に帰るにはひどく時間がかかりそうだ。
 まるで馬鹿みたいだ。
 だけど馬鹿でいいじゃないか。
 そう開き直って、俺は両手を挙げて大きく伸びをしたのだった。

 部屋に戻ってゼキにその決意を伝えると、彼はひどく喜び(といってもやっぱり表情はあまり変わらないのだけれど)、そして是非自分にお供をさせてくださいと申し出てくれた。
 何だか彼を振り回すようで悪いなと思ったけれど、実際問題として彼が居なくては右も左もわからないのだし、旅なれた彼が一緒に行動してくれるのはとても心強いので、ありがたく協力を受けることにした。

 旅は長くなりそうだ。
 だけど……ジャハーン。
 俺は必ずあんたのもとへ帰る。
 そして、一発殴ってやる。やられたら、やりかえさないとな。
 そして……そして、あいつに何て言おう。
 俺は、あいつに会ってどうしようというんだろう。
 でもそれは、旅の道中で考えることにする。
 今はただ、ジャハーンのもとへ帰ることを……ただそれだけを考えていよう。