一日かけて支度を整えると、俺たちは早速小舟に乗り込んでシシロ大河を進み始めた。
 とんでもないと断るゼキを退けて、俺も時々櫂を漕いだ。
 必死になって水を掻いていると、むしょうにあの時のことが思い出された。
 ゼキとファトマと俺とで、力を合わせてユクセルの追っ手から逃げおおせた時のこと。
 あんなにも消え入りそうだったファトマが、顔を赤くしながら一緒に漕いでくれて、俺はとても嬉しかったのだった。
 そのことをゼキに話すと、ゼキも少し懐かしそうな顔をして、口の端に笑みを浮かべた。
「……あの時は、本当に嬉しかったですよ」
 いつも鋭い目つきを和らげてそう言った。
「生きる気力をなくしたとばかり思っていた妹に、まだあんな気力が残っていたと知って……まだ私達には未来があるのだと信じることができましたから」
「そうだよな。今ではファトマも王宮でうまくやっているようだし……ほんとに良かったよな」
「それも全て、神子のお陰なのですよ」
「やめろって。俺だって、あんたの力がなきゃ逃げ出せなかったんだしさ。おあいこだろ」
「……」
 ゼキは何も言わずに小さく笑うと、俺の手から櫂を取った。
「ゼキ」
「交替です」
「だって、俺全然漕いでないよ」
「充分身体を休めることができましたから。それに、この方が早い」
「……ま、そりゃそうだけどさ。チェッ、どうせ俺は非力だよ」
 わざとつまらなさそうに言ってやると、ゼキは少し困ったような顔をした。
 それを見てこっそりと笑うと、俺は広々と流れる大河の先を見つめたのだった。

 ゼキの家を発ってからちょうど二週間後、持って来た食料が底を尽きかけてきたので、俺たちは近くの町に立ち寄ることにした。場合によってはここから馬か駱駝で旅することになるかもしれないと言う。
 マグディ・ハン王国の首都に近いこの辺りの町は、けっこう栄えているのだそうだ。
「人の多い町ですが、神子は少し目立ち過ぎますので……申し訳ありませんが、少々変装していただく必要があります」
 ちょっと気の毒そうな顔をしてそう言うゼキに、俺は胸を張って見せた。
「別に、変装するくらい何でもないぜ。俺の肌は白すぎるから、粘土製の顔料で肌を塗ればいいんだろう?」
「そうですね、なるべく髪や顔も隠していただいて……それから」
「いいぜ。何だってやるよ」
「……そう仰っていただければ心強いのですが」
 そこで、ゼキは苦笑いに似た表情を作った。
 ゼキがそんな顔をするのは珍しいので、俺はにわかに不安を覚える。
「そんで、あとはどうすればいいわけ?」
「非常に申し上げにくいことですが……神子には、女性に扮していただきたいのです」
「へ?」
 その時の俺の顔は、見事にマヌケだったことだろう。
「女性って……女性って……俺に、女装しろってのか!?」
「はい」
 げ―――ッ、なんだよそりゃあ。
 自慢じゃないが、俺は嫁扱いされたりキンキラキンに着飾らされたりしたことはあっても、女そのものの格好をしたことなんて一度だってないんだ。
 いくら男らしさとは程遠いもやしっこだと言っても、それなりに男のプライドってもんがある。
「なんで、なんで、なんでだよっ!」
 何だってやると言った舌の根も乾かないうちに、俺はまるで駄々っ子みたいにゼキに掴みかかる。
「小柄な神子が群衆に紛れるには、最も有効な手段ですので……旅の二人連れを装うには、夫婦を演じるのが一番自然なのです」
 申し訳なさそうなゼキを見ていると、俺の「絶対イヤだ!!」という言葉が喉の奥で力を失ってしまう。
 かつてユクセルのもとで「刻印つき奴隷」として密偵活動をしていたゼキの言葉なのだから、間違いないのだろうし……だけど……だけど、俺の男のプライドが……沽券が……。
「どうしてもお嫌であれば、他の方法を考えますが」
「……だけど、それが一番いいんだろ?」
「まあ、最も危険が少ない手段ではありますが」
 ……そうだよな。ジャハーンのもとに帰るまでに、何かあったら元も子もないもんな。
 俺はグッとこらえて、頷いて見せた。
「よろしいのですか?」
「しょーがないだろ。ここはひとつ腹くくって、男らしく女装でもなんでもしてやる!」
 もしここにアマシスが居たら、「男らしい女装って何なのさ」と鋭いツッコミを受けていたところだろうが、ゼキはホッとしたように息を吐いただけだった。

 かくして、旅の夫婦に扮した俺とゼキは、マグディ・ハンの主要な都市のひとつ、マナーマに潜入したのだった。