マナーマは大きな街だった。
 其処此処で市が開かれ、狭い路地は人や物や動物達が入り混じり、すさまじい熱気を放っていた。
 渇いた空気には埃が大量に含まれていて、俺の目や鼻や喉を容赦なく刺激してくる。
 髭を生やした男達が、様々な国の言葉で怒鳴りあっている。
 俺の目には混乱のるつぼとしか思えないこの混雑にも、一応それなりの秩序というかルールのようなものはあるらしい。ひどく慣れた様子のゼキは、道を塞ぐ人々に声を掛けながら、特に苦労するでもなくスイスイとその中を歩いていく。
 もちろん俺は、そんなゼキの後ろにくっついて行くのが精一杯だった。
 俺はマグディ・ハン人女性を装う為に、チャドルという服を着ていた。それはまるで全身覆面のように、頭から足まで布ですっぽりと覆ってしまう洋服で、唯一空気に触れる場所といったら目元しかない。人目をはばかる俺としては好都合なのかもしれないけれど、視界は狭いし足はもつれそうになるし、歩きにくいったらないんだ。
「ゼ、ゼキ、ちょっと待ってくれよ」
 俺がゼキの腕をつかんでそう言うと、ゼキは俺を振り返ってちょっと困った顔をした。ちなみにゼキは口元に付け髭をつけている……。
「私のことはエフードと呼ぶよう言った筈です、ヤスミーン」
 はっ、そうだった。俺はゼキ……じゃない、エフードという商人の妻、ヤスミーンという設定だった。
「ごめんなさい、エフード」
「いいえ、ですが気をつけてください。何処で誰が聞いているかわからないのですから」
「……ハイ」
 マナーマに入るにあたって、ゼキに注意されたことは三つだった。
 ひとつ、ここでは自分達の名前はエフードとヤスミーンであるということ。
 ふたつ、俺はなるべく口を開かないようにして(マグディ・ハン人女性のように)、話す時はゼキにしか聞こえないほど小声で話すこと。
 みっつ、絶対に人前で肌を晒さないこと。
 言われた時は楽勝じゃんと思ったんだけど……なんだか不安になってきた。
「と、ところで、俺たち何処まで行くんだ?」
「もうすぐそばですよ。質素ですがなかなか良い宿があります。そこでヤスミーンが身体を休めている間に、私は物資を調達して来ますから」
「えっ、俺も行くよ」
「この国では、女性は軽軽しく出歩かないものなんです」
「だって、せっかく来たのにさぁ……もったいない」
 ゼキは立ち止まり俺の顔をまじまじと見つめると、珍しく呆れたような溜息をついた。
「貴方という方は……」
「だってさぁ、ゼ…エフードは何度も来てるから見飽きてるかもしれないけど、俺はこんなとこ来たの初めてだもん。ちょっとは観光とかしたいよ」
「……そういうものですか? ……まあ、貴方様らしいと言えばそうなのでしょうが……」
 生真面目な常識人のゼキは、非常に困惑した面持ちだ。
 俺はそんな彼を振り回しているような気になって、ちょっと慌ててしまう。
「まっ、いいや。今回は仕方ないよな。観光はまた今度でいいや」
 そう言って笑う俺を複雑な表情で見つめてから、ゼキはすぐそばの建物に入っていった。
 どうやらここが例の宿らしい。
 ゼキは宿の親爺に、耳慣れない言葉で何か言い、鍵を受け取った。
 俺はゼキについてそのまま階段を上がり、至ってシンプルな造りの部屋に入った。
 質素だけど清潔、ていうのはこういうことなんだろうな。
 部屋の中には古いベッドが二つと、小さなヒビの入った出窓があるきりだった。
 でも、シーツはきちんと洗濯されているし、いかにも年季が入ってる出窓も、近くで見るとホコリひとつなく、ヒビも丁寧に手当てがしてあった。
「けっこう、きれいじゃん」
 俺が感心した風に言うと、ゼキは頷いた。
「ここの主人は信用できる人物です。かといって、真実を話す必要はありませんが……さて、私はこれからすぐにでも買出しに行ってまいります。そうすれば暗くなる前には戻れるでしょうから。何か要り用ものはありますか?」
「あ、と……俺はよくわかんないから、ゼ……っと、エフードにまかせるよ」
「わかりました、ヤスミーン。それでは、きちんと鍵をかけて、けして開けないでください。私は鍵を持っていますから、私だと思っても鍵を開ける必要はありませんよ。それから、主人には、妻は体調が悪くて伏せっていると伝えておきますので、お静かになさっていてください。あと、窓にはあまり近付かれませんように」
「わかった」
 俺がこくんと頷くと、ゼキはそれでも何だか不安そうな顔をしていたが、「私が出たらすぐに鍵を閉めてください」とだけ言うと、部屋を出て行った。
 俺は言われた通り鍵を閉めると、ふーっと溜息をついて、それからチャドルを脱いだ。
「ふぃ〜っ」
 あー、やっと視界が開けた。
 この服は息苦しくってたまんないんだよな。
 俺は脱いだチャドルを放り投げると、うつ伏せにベッドに寝転んだ。
 それから、ゼキが置いていった荷物から干しイチジクを取り出すと、ちびちびと齧る。
 干物にも、飽きたな……いい加減。
 新鮮な果物が食べたいなあ。
 瑞々しい野菜たっぷりのサラダと、それから肉も。
 あとは、焼きたてのクッキーが食べたい……。
 こんなこと考えたってしょうがないんだけどさ。
 それにしても、ここからまた舟で移動すんのかなぁ。あの揺れにはいい加減慣れたけど、ケツが痛くって仕方ないんだよな。座布団なんかないしさ。
 帰って来たら、ゼキ、ここから歩いて移動するって言ってくんないかなあ。馬もやだな。少しケツを休ませたいぜ。
 そんなことを考えながら、強ばった尻を擦っている時だった。
 ――コン、コン。
「えっ……?」
 ドアが、小さくノックされたような音が聞こえた。
 ――コンコン。
 あ、まただ。
『もし……お尋ねしたいのですが』
 知らない言葉で、何かを言っている。
 何だろう? 物売りかな? どうしよ……でも、ゼキが絶対に鍵開けるなって言ってたからな、寝たふりしてれば諦めるかな?
 俺は何となくソワソワした気になって、脱ぎ捨てたチャドルをまた頭から被った。
『もしや……こちらにジュンという方が居られるのでは?』
 ん?
 なんか……今、俺の名前を呼んだような……。
 まさか、な。
「潤……黒石、潤。いないの?」
 え……。
 今のは、はっきりと聞こえた。王国の言葉で、俺の名前を呼んでる。
「だ、誰?」
 俺が聞き返すと、ドアの向こうで息を飲むような音が聞こえた。
「潤、潤でしょう? ああ、よかった……」
 あ、この声……何だか聞き覚えのある声だ。
 もしかして……もしかして……。
 俺は胸をドキドキさせながら、震える指で、そっと鍵を開けたのだった。