ユクセルが手を鳴らして合図すると、まもなくして二人の若い兵士が料理ののった皿を抱えて天蓋に入ってきた。マナーマの市場で手に入れたのか、それはなかなか豪華な食事風景だった。 鶏肉の煮物や、山羊のチーズ、ハーブのサラダ、そしてパンが絨毯の上に並べられて湯気を立てている。 何ともおいしそうな匂いに、俺は必死で唾を飲み込んだ。 ユクセルが片方の眉を上げておかしそうに笑うと、俺に掌を向けて「どうぞ」と言うように促した。 俺は思わず両手を合わせて「いただきます」をすると、さっそくその料理に手を伸ばした。 パンは平べったい王国のものと違って厚みがあり、焼きたてとは言えないがなかなか香ばしい。鶏肉は、果汁に香辛料をふんだんに使った煮汁が良く染みていて、噛み締めると肉汁がじゅわっと口の中に広がる。空腹の俺にはこの上ないご馳走だった。 ザクロのジュースを飲みながら、ものすごい勢いで料理を口に運ぶ俺を、ユクセルはずっと面白そうに眺めていた。俺はちょっとそれが気になったが、あえて気にせず食事を続けた。 腹が満たされて、ようやく人心地になった俺に、ユクセルがリネンのナフキンを差し出す。 それで口を拭けということらしい。 別に今更、こいつの前で格好つける必要なんてないわけだけど、ちょっとだけ照れ臭い気持ちを感じながら、俺はナフキンを受け取って口元をゴシゴシとぬぐった。 「……以前も思ったけれど、まったく、その細い身体でよく食べることだよ。いくら可愛らしくても男だね、君は」 「何当たり前のこと言ってんだよ。俺が女に見えるっていうのか?」 「しとやかに黙って微笑んでいれば、あるいは」 「何だよそれ。暑さで頭やられたのか?」 「……あとはその口の悪ささえなければね」 呆れたような口調とは裏腹に、妙にユクセルは機嫌が良さそうだった。 何処か開き直ったようにも、吹っ切れたようにも見える。それとも、空腹が満たされて俺の心が落ち着いたから、そう感じられるだけなのだろうか。 「あんたは食べないのか?」 「僕はこれだけでいい」 そう言って、ワインの入った杯を揺らす。 「それに、もう食事は済ませてある」 ワインをまた一口煽ると、ユクセルはさて、というふうに姿勢を正した。 「それじゃあ、話を戻そうか?」 「あ、ああ……そうだな。ユクセルは、兄貴をはめるっつってたけど……結局俺はどーいう役割なんだ?」 「役割?」 「あんたは、ただ俺にここに居てもらいたいって言ってたけど、いくらなんでも、毎日ただ飯喰って寝てりゃいいってわけでもないんだろう?」 「いや、毎日ただ飯喰って寝ていてもらってかまわないよ。ただ、常に僕と共にね」 「あんたと?」 「そう、せいぜい周囲に見せ付けてやって欲しい……要は、ジェスールをうまくおびきよせることができればいい。アスワンには、もう君の身柄を確保したと書を送ってある。これがどういうことかわかるかい?」 「俺を手に入れたってことは、ゆくゆくは王国を……ってことだろ」 「その通り。王国の王位継承権は、常に王妃や王女によってもたらされる……つまり君の伴侶になるものは、太陽王の死後王国の主となることができるというわけだ。しかも今世間では、君は太陽王を見捨てたということになっている……真偽のほどは別としてもね。その君が次に選んだのが僕ということになれば、これは非常に面白いことになる」 「あんたにとってはな」 「もちろんジェスールにとっては面白くない筈だ。困るだろうね」 「だから、俺のことを奪いにやってくると?」 「そういうわけだ」 ユクセルは肩をすくめた。いかにも彼らしい気障な仕草だ。 「単純な話だろう?」 「だけど、そううまくいくのかな。あいつはムカつく上にとんでもない馬鹿だけど、人並みの脳味噌は持ってんだろ?」 「ハハハ、君も言うね、相変わらず。確かに彼は無能だが、まあ中身は至って凡人だよ」 「それなら、のこのこ敵地の側までやって来るかな? 俺だったら絶対アヤしいと思って警戒するけどな」 「そこが、長年の僕の忍耐の成果というやつだね」 ユクセルは皮肉っぽくニヤリと笑った。本性を垣間見せたという感じの笑い方だった。でも、いつもの取り澄ましたわざとらしい笑顔よりも、ずっとしっくりくる。 「何の為に僕が、あの低能にこびへつらっていたと思う?全てはこの瞬間の為さ。今までどんな無理難題や侮蔑嘲笑も、従順を装って甘んじてきたんだ。今回だって、威圧的な態度に出れば、僕が大人しく君を差し出すと思っている筈さ」 「……」 俺は、ユクセルの王位への執着心に、改めて眩暈を覚えた。 こいつは、このチャンスの為だけに、小さい頃から周囲を偽って生きてきたのか……。 「しかも、これは僕にすら隠している事実だけれど……国王陛下は今、危篤状態に陥っている」 「え、あんたの親爺さんが?」 何て言ったっけ、アルヌワンダ……三世、か。あの得体の知れない爺さん。 「そういう情報は、いくら隠そうとしても自然に耳に入ってくるものでね」 「よく言うぜ。どうせスパイか何かがうようよいるんだろ」 「すぱい? ……まあいい。とにかくそういうことだ。陛下が崩御されようとしている。このまま黙っていても王位は自然と自分の手に落ちてくる。その上、絶大な富を誇る王国を手に入れることもできそうだ……ジェスールは今、そう信じて浮かれているだろうね」 「だからこそ慎重になるってこともあるだろ」 「いずれにしても、これが僕にとって最初で最後の好機であることに違いはない」 そうキッパリと言い切ったユクセルの瞳には、迷いなんて欠片すら見当たらなかった。 「僕の一世一代の賭けだよ。負ければ命はない。だが、勝てば富と権力を手に入れて、やっと陽のあたる場所へ這い上がることができる……安心したまえ、君をそこまで巻き込むつもりはないからね。君はジェスールがここへ到着する前に、ゼキとあの少年と共にここを発てばいい」 「……ユクセル」 俺は彼の名前を呼んだきり、何もそれ以上言うことが出来なかった。 ああ、男だなと思った。 こいつは今、間違いなく男の目をしている。 眩しくて、同時に、もしかしたらこれから先、二度と彼に会うことはないのかもしれないと思うと……自分でもうろたえてしまう程、胸が痛いのだった。 |