しばらくと言っていたが、俺がユクセルに呼び出されてここから脱出しろと指示されたのは、それからわずか一週間後の夜のことだった。
「ジェスールが、アスワンを発ったとの情報が入ってね」
 優しげな微笑みを口元に浮かべて、ユクセルがそう言った。
「これからここは戦場になる。その前に君は王国へ帰りなさい」
 あまりにサラリと言うので、俺は目の前にいるこの男が、これから戦争を始めようとしているのだという実感が湧かなかった。素直にそう口にすると、ユクセルは器用に片方の眉を上げて見せた。
「そんなに緊張感がないかな? まあ、嵐の前の静けさといったところか……陳腐な表現だけれど。とにかく、もう手配は済ませてある。ゼキとあの少年は支度を済ませて待っている筈だから、君は着替えだけをして行けばいい」
「今から?」
 俺は思わず子供みたいに声を高めた。
 そろそろ深夜と言ってもいい時間帯だ。こんな時間に、しかも今すぐ出発するだなんて……まだ心の準備ができていないのに。そこまで考えて、心の準備って何の準備だ? と一人ツッコミをする。
 そんな俺の心境を知ってか知らずか、ユクセルはまるで小さな子に言い聞かせるように、俺に目線を合わせて背をかがめた。
「ゼキが一緒だから心配はいらないと思うけれど……何と言ってもあの男の腕は、僕が一番よく知っているからね。でも、何処にジェスールの手の者が居るか知れない。王国に無事たどり着くまでは、軽率な行動は慎んで、くれぐれも目立たないようにしなさい」
「な、なんだよ。ガキじゃあるまいし、言われなくてもわかってるよ、そんなこと」
「ガキじゃない、ね……さて、どうだか」
「うるせえな。人の心配より自分の心配しろよ!」
 ユクセルは、おや、と目を見開いた。
「僕の心配をしてくれるわけかい? まったくこの期に及んでお優しいことだね、君は」
「あのなぁ……いい加減その嫌味な言い方直せよな、あんたも」
「生まれ持った性格は直しようがない、というわけか。お互いに」
 そう言って、ユクセルは笑った。
 その屈託のない笑顔を見て、俺は何故だか泣きそうになった。
 あんたは変わったよ。こんな笑い方ができるようになったじゃないか。
 そう言ってやりたかったけど、でも言ってどうなる? という気持ちもあって、俺はどうすることもできなかった。
 もう二度とこいつに会いたくない。そう思っていたはずだった。
 何度もひどい目に合わされて……いつもいつも、嫌味で陰険であまのじゃくで……だけど……だけど……。
「……死ぬなよ」
 無意識にそう呟いていた。
「絶対、死ぬなよ……」
 ユクセルが俺をじっと見つめてくる。その淡い紫の瞳がふいにぼやけた。
 ああ、違う。こいつの目じゃなくて、俺の目が……涙でぼやけてるんだ。
 そう思うと、もう止まらなかった。
 後から後から熱いものが込み上げてくる。悲しいとか、寂しいとか、そんな気持ちじゃなかった。なのに、何故か涙が止まらない。くそっ、何処まで情けない男なんだ俺は。
「ジュン」
 ユクセルの押し殺したような声が耳元で聞こえる。
 気がつくと、俺は彼に抱きしめられていた。
「死ぬなと、言ってくれるのかい? 僕が君に何をしたか、まさか忘れたわけじゃあるまいに……それでも僕に死ぬなと」
 そう簡単に忘れるかよ。俺はニワトリじゃねーぞ。
 いつものようにそう答えてやるつもりだったけど、口を開けば嗚咽になってしまいそうで、俺はただ唇を噛み締めて息を殺していた。
「ジュン……僕の為に泣いてくれるのか、君は」
 溜息交じりの、切なげな声。
 ダメだと思った。こんなことをしてはいけない。早くこの腕を振り払わなければ。そう思うのに、俺はただ肩を震わせることしかできない。
「君は太陽王のものだけれど……今のこの涙だけは、僕のものだと思っていいんだね?」
 何だそれ、卑怯だぞ。
 こんな時だけそんな殊勝なセリフ吐くなんて……余計に逃げられないじゃないか。
 何だか悔しくて、睨みつけてやろうと顔を上げると、すぐ目の前にユクセルの顔があった。
 それがゆっくりと近付いてきて、唇で涙をぬぐわれる。
「な、ユ、ユク……」
「シッ……黙りなさい」
 何度も何度も、唇が降りて来ては優しく涙を吸い上げていく。
 それはまるで何かの儀式のようだった。
 やがて俺の瞳から涙が引いて、頬を伝うそれが全て彼の唇に消えると、ユクセルは俺の身体を放した。
「……さあ、行きなさい」
 既に気持ちを切り替えた、というような厳しい声でそう言うと、俺の背を押して天蓋の外へと送り出そうとする。
「ユクセル」
「僕も単純なものだよ。何故だか今ので負ける気がしなくなった。……僕はきっと、玉座についてみせる。そして太陽王を打ち破り、君をこの手に入れてみせる。その時はいさぎよく諦めるんだね、ジュン。僕に力を与えた君が悪いのだから」
 最後にそう言って、ユクセルはトン、と俺を天蓋の外へ押し出した。
 すると、少し離れた所にゼキとアマシスが立っているのが見えた。
 慌てて振り返ったけれど、天蓋の入り口はもう閉まっていて、わずかにユクセルの歩く気配が感じられるだけだった。
「潤! ああ、よかった……」
「神子、ご無事で何よりです……本当に! ……さあ、とにかく急ぎましょう。馬の支度は整えてあります」
 ゼキとアマシスに急き立てられるようにして歩きながら、俺はもう一度後ろを振り返った。
 ……ユクセル。
 俺……俺が愛してるのは、たった一人、ジャハーンだけだ。
 だけど……だけど俺、あんたのこと……。
 そう心の中で言いかけて、俺は首を振った。
 そんなこと、今考えても仕方のないことだ。
 ……俺は、必ずジャハーンのもとへ帰るよ。だから、あんたも必ず生き抜いてくれ。
 俺はひとつ大きな溜息を吐くと、しっかりと前を向いて走り出したのだった。