その日は、満月だった。
 当たり前だけど、この世界では街灯なんてものは存在しない。
 夜道を照らしてくれるのは月と星の明かりだけだ。だから満月とは言っても、人気のない川沿いなんて、俺にはまるで真っ暗闇の世界に感じるのだった。
 その闇の中、ゼキとアマシスの二人からはぐれないようにするのが精一杯で、何とか小さな帆かけ舟まで辿り着いた時、俺は既にヘトヘトに疲れていた。
 当初の予定では、ここから馬か何かを手に入れて陸路を進むつもりだったのだが、ジェスールのこともあるので、あえて遠回りになる水路を選んだのだと、途中でゼキが教えてくれた。勝手に決めて申し訳ないとゼキは言ったが、俺にとっては良いも悪いもない。旅をする上で何が危険で何が安全か、そんなこともロクにわからないのだから、全ての判断をゼキに委ねるしかないのだ。
 疲れきった体を舟に押し込めるようにして乗り込み、真っ暗なシシロ河を進んでいくうちに、俺はふと違和感を覚えた。
「あれ、なんか……」
 ポツリと小声で呟いた言葉に、アマシスが敏感に反応する。
「どうしたの? 潤」
「いや……何か、変な感じがしたんだけど……」
「変な感じって?」
「よくわかんないんだけどさ。何となく、今までの河と違うような……」
 俺は目を凝らすようにして、辺りを見渡した。
 だけどもちろん、この暗闇の中でその「何か」を見つけれるはずはなかった。
 真っ暗な河の水は、ただ月と星だけを映して、ゆらゆらと揺れているだけだ。
 だけど、その揺らめく水を眺めているうちに、俺はそのことに気がついてしまった。
「あ……」
 思わず声を漏らす。背筋がぞっと粟立つのを感じた。とっさに自分の二の腕を掴むと、鳥肌が立っていた。
「河の水位が、上がっている……」
 そうだ。多分、いや絶対にそうだ。
 シシロ河が、氾濫を始めているのだ。
 サーッと血の気が引いていく音が聞こえるようだった。
 下に広がるこの川が、まるでブラックホールのように俺たちを飲み込もうとしている……そんな錯覚さえ覚える。軽やかに水面を進むこの帆掛け舟が、急にちっぽけなものに感じた。まるで海に浮かぶおもちゃのようだ。小さな波に、たやすく飲み込まれて沈んでいってしまうような。
「潤、どうしたの? 潤ってば!」
 アマシスが俺の身体を揺さぶる。
 ああ、だめだ、そんなに動いては。
 頼むから舟を揺らさないでくれ。
 静かにしていなくては、「あれ」が来てしまうじゃないか。
 いや、どっちにしろ「あれ」はやって来るのだ。地響きのような音を立てて、全てを飲み込もうとするかのように……。
「神子、お気を確かに」
 ゼキの静かな声がする。
「じき夜が明けます。東の空が微かに明るくなってきている」
 その言葉に、俺は川面を凝視するのをやめて顔を上げた。
 ゼキの言うとおり、地平線の向こうの夜空だけが、ほんのりと白っぽく染まっていた。
 それはゆっくりと、でも確実に広がっていく。
 そして、大きな青白い星が姿を現した。
 ……セプデト……天狼星。
 無数の星の中で最も大きく、神聖な星。
 シシロ大河の氾濫と共に、姿を現す不思議な存在。
 セプデトの後を追うようにして、太陽が昇ってくる。
 強大なデジャヴが俺を襲った。
 俺は、知っている。これこそがあの夢だ。
 あの夢は夜明けではなかった。だけど、これを意味していたのだ。
 真実は突然俺のところへやって来た。
 俺が恐れていたのは、シシロの氾濫じゃなかった。ましてや、一年の始まりを示すセプデトでもない。
 俺は太陽が怖かったのだ。
 俺はずっと、ジャハーンを恐れていたのだ。
 そのことに気がついて、俺は大声で泣き叫びたいような、それでいて手を叩いて笑い転げたいような、激しい衝動にかられた。
 俺は、ずっと日本で……俺のもといた場所であの夢を見ていた時から、俺を強く愛し、俺を縛りつけ、支配するであろう男のことを……あの強く有無を言わせぬ輝きで、俺の全てを奪ってゆく男に、恐怖を覚えていたのだ。だからこそ、あんなにもあの夢が怖かった。俺とあいつとを結びつけるあの夢が。俺とあいつを近づけたあの夢が。怖くて怖くて、逃げ出したかったけれど、俺はちゃんと、何処かとても深いところでわかっていた。それでもあいつと出会わなければならないと。
 俺たちは会うべくして出会った。形のない力が導くままに。
 ジャハーンは告げられた運命のまま俺を愛し、俺もあいつを愛した。とても強く、魂ごと愛した。だからこそ、ずっと怯えていた。いつかまたあの力によって、俺たちは別れる日が来るのではないかと。あの夢によって、もう二度と会えない場所へ帰されるのではないかと。
 いや……違う。本当は彼の心変わりを恐れていたのかもしれない。
 それとも、彼が戦争や病気で死んで、一人取り残される不幸を?
 もしそうなったら、俺は生きてはいけない。そんなところまで、この想いは来てしまった。もう引き返せないんだ。どんなに辛くても、あいつと出会う前の自分には戻れない……そんな予感に、足がすくんでいたんだ。
 そんな、出会う前から覚えていた恐怖は、あの夢の中、津波と氾濫という脅威の陰に巧妙に姿を隠していた。
 何故俺たちは出会う必要があったのだろう?
 何故俺がこの世界に来る必要があったのだろう?
 その疑問こそが、形のない不安の正体だったのだ。
『ああ……ジャハーン。今ならわかる。あんたも、怖かったんだな……』
 思わず日本語で呟いた、その瞬間。
 俺は温かな水の中に居たのだった。