そこには何もない。
 ただ闇だけが果てもなく広がっている。自分が目を開いているのか閉じているのか、わからなくなるほどの闇だ。
 そこには何の音もない。
 普段、日常で味わう静寂とはまったく違う静けさだ。大気が震える微かな音すらしない。
 ただ、あたたかい。
 暑くもなく、寒くもなく、生温いような……不思議と安心するあたたかさだ。
 ここには何も怖いものなどない。
 だってここは水の中なのだから。誰の手も届かない、暗く深い水の中なのだから。

 ―あなたは、帰りたいのですか?―

 それは突然俺の中に響いてきた。
 まるで俺が考えたかのように、自然と。でもそれはけして俺の言葉じゃない。
 俺の声(?)を使って、誰かが話し掛けてきているのだ。

 ―それとも、戻りたいのですか?―

 何処へ? 何処へ帰るって言うんだ? 戻る場所って何処なんだ? 一体何のことを言っているんだ?

 ―何処へでも―

 何処でもいいと言うのなら……俺は、ジャハーンのもとへ帰るよ。王国は俺のふるさとじゃないけど……でも、ジャハーンの側が俺の居る場所なんだ。

 ―それがあなたの答え?―

 そうだ。これが、俺の答えだ。俺はもう答えを変えたりしない。だから、あんたも俺の質問に答えてくれよ。あんたは、誰なんだ?

 ―私は、誰でもないもの。私には姿も、心もない。意志もない―

 そんな筈はない。だって、あんたなんだろう? 俺をこの世界に呼んだのは。俺にあの夢を見せたのは……。教えてくれ、どうしてあんたは俺を呼んだんだ? どうしてそれは俺だったんだ? 俺がこの世界に来た本当の意味は何なんだ?

 「それ」は一瞬沈黙した後、静かな言葉を返してきた。

 ―私には意志はありません。あなたを呼んだのは私ではない……あなたを呼んだのは、若き運命の王です―

 それって……もしかして?

 ―あなたがジャハーンと呼ぶ……悲劇の王となるべきだった青年のことです―

 ジャハーンが……あいつが、俺を呼んだっていうのか? でもどうして……俺たちは一度も会ったことなんてないし、第一俺はあいつの存在すら知らなかったし……定められた嫁を求めるあいつが、偶然俺を引っ掛けたっていうのか?

 ―それは偶然であり、必然です。言葉にすれば、全て陳腐なものになる。ですがあなたが言葉を求めるならば、私はそれに答えましょう。彼はたった一つの存在を強く求めていました。その存在こそが彼の生きる意味であり、人生の目的だったのです。そしてそれは彼の中ではっきりとした形になっていた……姿こそ曖昧なものの、彼が求める魂はただ一つ……それがあなただった。彼の定めた条件に当てはまるのがあなただったとも言えるし、あなたを求めるが故に彼が条件を定めたとも言えます。それがあなたが選ばれた理由……わかるでしょう、これは意味のない言葉だと―

 意味のない言葉……確かにそうかもしれない。説明されればされるほど、頭が混乱してくるし、却って真実から遠ざかっているような気さえする。

 ―そして、もうひとつの問いの答えです……先ほども答えた通り、私は誰でもありません。誰の目にも見えず、何の意志もない。ただ存在するもの。いつからともなく、いつまでともなく……始まりと終わりさえなく、ただそこにあるもの。けれど私の存在を知った者達は、私をレーィと呼んでいます―

 レーィ……ああ……水の女神! シシロ大河を寝床にする、太陽を生み出したあの女神……あんたがレーィだったのか。

 ―いいえ、私はレーィではありません。ただ人がそう呼ぶだけ……私には意志はない。だから、強い意志を持った者に呼ばれるのです―

 それが、ジャハーンだったと?

 ―そう、それが彼であり、そして過去の王達であり、預言者達であり……そしてあなたなのです―

 俺? 俺に、強い意志なんか。

 ―あなたは強い魂を持っています。それは目に見えるものではありません。ですが、とても確かなもの。あなたのような魂の持つ力が、私を存在たらしめているのかもしれませんね……これもまた、意味のない言葉です。さあ、あなたの意志をもう一度聞かせてください。あなたは、どうしたいのですか?―

 俺は……俺は、帰りたい。
 もう一度、ジャハーンと出会いたいんだ!

 「それ」が微かに笑ったような気がした。気のせいかもしれない。でも、そんな感じがした。
 微笑んで、しっかりと頷いたような。
 だけどその感覚は、全て闇の中に吸い込まれていってしまった。
 俺は、急激にこの安らかな闇が遠ざかっていくのを感じる。
 何か強い力に引き寄せられて、明るい世界に向かって行く……ああ、なんて眩しいんだろう。そこは眩しすぎて疎ましく、恐ろしく、そしてとてつもなく美しい世界だ。
 ジャハーン、わかるよ。
 俺のことを、呼んでいるんだろう?
 俺はその黄金色の輝きに向かって笑いかけた。
 俺は、今すぐそこに行くよ。
 だからもう少しだけ、待っていて――。