目を開いた時、まず見えたのは朝焼けに染まる空の色だった。
 西の方はまだ濃紺の夜空だが、そこから朝陽に近づくにつれて、空は紫紺、淡い紫、ピンク、そして燃えるようなオレンジ色に輝いている。
 夢のように奇麗だった。
 そして、河もオレンジ色に染まっている。
 いつもよりも多量の水をその身体に湛えて、太陽の光をキラキラとはじきながら流れていく。
 空気は水気を帯びて、しっとりと俺の身体を包み込んでいる。
 その朝露に濡れた葦の中、ジャハーンが立っていた。

 正直、ジャハーンに会った時、自分がどう感じるのか不安だった。あんなことがあったから、やっぱりこいつを怖いと思ってしまうのかと。
 でも、実際こうして彼が目の前に居ると、ただそれだけで身体中が震えるくらい嬉しかった。
 ジャハーン。
 そう、あんたがそこに居るだけで。

 ジャハーンが呆然とした表情で立ち尽くしているので、俺は自分から彼に歩み寄った。
 近付いていくうちに、気がついた。
 ……痩せたな、こいつ。
 顔や身体のラインが、荒々しくシャープになっている。顔色も少し悪い。なのに目ばかりがギラギラして、俺を食い入るように見つめている。
 ああ、初めに何て言おう。とりあえず怒った方がいいのかな? それとも、泣いた方がいいのかな?
 それにしても、何だか今のこの状況は、初めて会った時に似ている。
 あれはもう少し明るくなった朝だったけど、こうしてシシロ河の河辺の葦の中に、こいつが立っていたんだ。ガンとばしてるとしか思えないくらい、鋭い視線で俺を見つめていた……。
 あの時、あいつは何と言ったんだっけ? 俺は、何て言ったんだっけ。
 今のジャハーンは異様なぐらい荒んだ雰囲気を醸し出しているけれど、俺はちっとも怖くなかった。何故か、彼が途方に暮れているように感じて……。
 ああ、思い出した。俺、一番最初に謝ったんだった。
 こいつがあんまり怖い顔で、鋭い声で何やかんや言うもんだから、てっきり怒られているんだと思って両手を合わせて謝ったのだ。そのポーズを見て、こいつは俺のことを神子だとかなんだとか言い出したんだよな。
 何だか、それがはるか遠い過去のことに思えた。
 だから、俺はジャハーンのすぐ目の前まで来た時、両手を合わせて頭を下げたのだった。
「……心配かけて、ごめんな。ジャハーン」
 そうだ。とりあえず、これを言わなければ。
「ホントに、ごめん。……ただいま」
 そう言った途端、ジャハーンの顔がクシャッと歪んだ。
 それは怒ったようにも見えたし、笑顔にも見えたし、泣き顔のようにも見えた。
 その顔が、ジャハーンの気持ちを全て表しているようだった。
「潤……」
 そう囁くなり、両手を伸ばして俺を引き寄せた。
 たちまち、俺はジャハーンの広く力強い胸の中に包まれる。
「よく、よくぞ帰って来てくれた……潤、よくぞこの私のもとへ……」
 しなやかな筋肉を帯びた腕が、壊れ物を扱うかのような繊細さをもって俺を抱きしめる。
 俺はそれに物足りなさを覚えて、身をよじった。
 もっと強く抱いて欲しい。息も出来ないくらい、きつく。
 そう思って、それなら俺がすればいいのだと、腕を伸ばしてジャハーンの身体に回した。厚い胸板に頬を押し付けるようにして、力いっぱい彼を抱きしめる。
 ジャハーンが息を飲むような音がして、俺の身体に回された腕に力がこもった。
「潤」
「会いたかった」
「……潤」
「あんたにもう一度会う為に、戻って来たんだ。やっぱり、俺にはあんたしかないから。俺はあんたがいいから……」
「潤」
「……あんたも、何か言えよ。馬鹿のひとつ覚えみたいにヒトの名前ばっか呼びやがって。だいたいなぁ、ジャハーンには責任があるんだぜ、俺をこの世界に呼んだのはあんたなんだからさ。男ならきちっと責任果たしてだなぁ……」
「潤」
 ジャハーンは急に俺の身体を引き剥がして、俺に目線の高さを合わせて腰をかがめた。
「な、なんだよ」
「何故泣く」
「そ、んなの……俺の勝手だろうが!」
 ちょっと恥ずかしかったが、俺は開き直る。
 涙が後から後からこぼれて止まらないのだから、仕方ない。
「まだ私を許してはいないのか?」
 その言葉にビックリして俯いていた顔を上げると、ジャハーンが苦しげな顔をしていたので、俺は焦ってしまった。
「許すも何も……」
「アマシスから全て聞いた。私がお前を傷つけ、そして誤解がお前を苦しめたのだと。……そんなつもりは、なかったのだ。私はただ、お前を誰の手にもやりたくはなかったのだ……お前が何処かへ行ってしまうような気がして、恐ろしかったのだ」
 ボソボソと、ジャハーンはそう言った。いつも堂々としているジャハーンがこんな話し方をするなんて初めてで、俺はうろたえた。
「すまぬ」
 ジャハーンは深々と頭を下げた。
「もう二度と、お前を傷つけぬと誓う。だから、潤……私を許してくれ」
 そんな、そんなこと。
 俺は胸が熱くなってしまって、嗚咽をこらえるのに必死だった。
 あんたこそがこんなにも傷ついてるんじゃないか。こんなにやつれて、すっかり落ち込んじゃって……俺こそ、あんたを傷つけてしまったというのに。
「馬っ鹿、やろー……」
 なんて馬鹿なんだ、あんたも、俺も。
「てめえ、この野郎、何処見てんだ。せっかく帰ってきたっていうのに、地面なんか見てないで、俺を見ろよ」
 ジャハーンが俺の情けなく震えた声を聞いて、顔を上げた。
「許すも、許さないもないんだよ……だって……俺はあんたのことが……好きなんだ、から。好きだから、結局何されても許しちゃうんだよ。だから、だからあんたも俺のこと、許してくれる、だろう?」
「許す? 私がお前の何を許すと言うのだ?」
「だから……何にも言わないでこんなに長くいなくなってて、そんで色々心配かけたし、それに、あんたのこといっぱい傷つけたし……」
「そのようなことを」
 ジャハーンはもどかしそうに、地に膝をついたまま俺の手をにぎりしめた。
 金色に輝く瞳が、俺を見上げる。
「お前が気に病むことなど何もない。潤、こうしてお前は戻ってきてくれた……それだけで私は満たされるのだから」
「それだけで?」
「そうだ」
「……満たされんなよ、それだけで。俺は、満たされないぞ」
「何? じ、潤、ではお前は……」
「キス、してくれよ」
「きす?」
「そう、キスして。いっぱい口づけて、いっぱい抱きしめて、それで、俺のこと好きだって言ってくれよ。じゃなきゃ、俺は満たされないからな」
 あー、我ながら何処まで女々しくなっちゃったんだ、俺は。
 だけどこの際、我慢は禁物だ。
 恥ずかしさに顔が真っ赤になるのを感じる間もなく、ジャハーンが俺を奪った。
 奪ったと言うにふさわしいくらいの、強く激しい抱擁だった。
 きつく抱きしめられる。そして、すこしカサついた唇が、まるで貪るように俺の唇を吸い、嘗め尽くす。
「愛している」
 ジャハーン……。
「潤、お前を愛している。誰よりも」
 ああ、ジャハーン、その言葉だけで。
 激しいキスの合間、荒い息づかいと共に、ジャハーンは何度も「愛している」を繰り返した。
 俺も負けじとジャハーンにしがみつき、「大好きだ」と叫んだ。
 そんな二人を尻目に、朝陽はゆっくりと空高く昇っていったのだった。